クルマの運転とは、こんなにも楽しく素晴らしい!クルマ離れで絶望的な損をする日本人 | ニコニコニュース

「Thinkstock」より
Business Journal

 本連載前回記事では、若者のクルマ離れの本質的理由について考え、そもそも日本人はクルマの運転に向いてないのではないかという問題提起を行った。今回は、そのように考えられる理由と、欧米と日本におけるクルマに対する価値観の違い、そして将来の日本の自動車産業について考察していきたい。

 欧米人がクルマ好きな理由は、いたってシンプルだ。クルマは個人の移動の自由を担保する最大の利器であり、自分たちが生み出した20世紀最大の文明物だからである。

 では、個人の移動の自由とはいったい何か。

 現代の日本人にとっては、あまりに当たり前すぎてピンとこない。もしくは、土地に束縛された農耕民族であり、しかも政治体制が確立されて以降に異民族からの侵略をほとんど受けたことのない島国民族の思考には、そもそもそういった考え方が刷り込まれていない。なぜなら、欧米民族のように生命の存続に関わる移動の試練と、その先に発達した自由精神の重要性を、われわれ日本人にはほとんど理解できないからだ。

 つまり、欧米人にとってクルマは、精神の礎を成す重要な生活・社会のピースであった。過酷な経験から知恵を尽くして生み出された文明の利器であり、その哲学からくる文化性を、誕生の当初からはらんでいた。

 ヨーロッパでクルマが生まれたとき、それはすぐに貴族社会のクルマ遊び=レースへと発展し、それがそのままハードの進化を促した。これがモータースポーツ必要論の原点である。そのプロセスを経ずして、方法論(たとえばモータースポーツのマーケティング活用)だけを欧米から学び取った日本人にとって、クルマは最初から文化成立の要素などではなく、戦後復興の経済エンジンでしかなかった。

 そもそも、移動の自由が個人・家族・社会の自律に必須という意識が希薄な日本人に、移動手段としての自動車に対する欧米人ほどの思い入れはなくて当然だと思う。それは、いきなり現れた、とても便利な道具でしかなかった。当初は憧れたが、だんだんと身近なものになっていった。移動を快適安楽に行いたいという要望は生まれても、自らの技量で人より早く逃げ出して目的地に到達したいという欲望など生まれようがなかった。ましてや、操作そのものをどうせなら楽しんで移動自体を愉快にしてしまえ、などという発想も出てくるはずがなかった。

「クルマの運転など面倒」「できればやりたくない」というのが、多くの日本人の本音ではないだろうか。そんな日本人の要望に応じた日本車の進化を見れば、それは一目瞭然である。オートマチック、各種快適装備、電子制御システム、運転支援システム、省燃費ドライブ、といったテクノロジーは世界ナンバー1になったが、基本の「走る・曲がる・止まる」というドライビングファン成立の基本条件がいまだにおざなりなクルマが、ヨーロッパに比べていかに多いことか。もはや、国産車が運転を楽しむものでないことは、近年の売れ筋カテゴリーを見ても明らかだ。

●日本のクルマが進むべき道とは

 もちろん、抵抗勢力はある。自動車メディア、われわれのような自動車評論家、熱心なクルマ好き、ファンやマニア――。彼らのニッチな欲望を受け止める役割を果たしているのが、今や輸入車であり、クラシックカーブームであろう。

 やみくもにドライビングの楽しさを唱えても、若者はおろか日本人にはまるで響かない。そもそも、運転することの社会的責任意識すらも希薄である。勝手に動いてくれるに越したことはない。公共交通網の素晴らしく発達した島国、陸上交通的に閉じた国である日本。この先、リニア鉄道網もできるとなれば、長距離移動は絶対的にクルマ以外が有利になっていく。欧米型のクルマの出番は、いっそう少なくなるだろう。

 そうなることを見据えて、たとえば自分の好きなカタチをファッションのように着こなせるマイクロコミューターや、自動運転で新たな付加価値を生みだす水素社会を含む新しいインフラの構築を、自動車メーカー任せにせず(トヨタ自動車などは積極的に取り組んでいる)、日本は国を挙げて取り組んだほうが賢明だ。

 筆者のような20世紀型クルマ好きにはとても悲しい未来ではあるけれど、既存のクルマ好きを幸せにする方法論と、国を挙げて盛り上げるべき産業論は、まるで次元が違う話である。

 日本という地政学的に特殊な事情をもつ国の発展を今日まで支えてきたピュアな西洋文明であるクルマを、これからは日本独自のカタチで進化させていかなければならない。それは当然のことで、現実から背を向けてはいけない。

  若者のクルマ離れやドライビングファン、モータースポーツといった個別の論議を、20世紀の欧米型価値観に基づき行っていても、日本の未来社会にとって益はない。日本型の、新しいクルマの楽しさを、今こそ創造していかなければならない。その芽生えは、個性的なファッションを施した「痛車」やドリフト走行など、探せばいくらでもあるである。

 文明を重ねて文化が育つ。欧米の文化様式をただ単に真似るばかりでは、育つものも育たないことは明白だ。そもそも真似は一生、文化にはならない。現在誇るべき日本文化は、外国の文明からエッセンスを吸収した真似から始まったとしても、先人たちの情熱によって独自の存在へと昇華し、本家を超えるような独創性を極めている。日本のクルマは、いわゆる欧米型の自動車文化をすっ飛ばして、次のモビリティ文明に先鞭をつけるべきだろう。

 翻って、われわれ20世紀の欧米型クルマ好き、クルマ運転好きは、どんなに肩身の狭い思いをしようとも、それをひたすら盛り上げていくしかない。それこそ、また別の文化を担うということ。社会は認めるか否か、自動車メーカーが存続させるか否かは、二の次、別の話だと思っている。
(文=西川淳/ジュネコ代表取締役、自動車評論家)