なぜブラインドサッカーは、チケット有料化に踏み切っても満席なのか ――ブラインドサッカーのチャレンジ(後編) | ニコニコニュース

プレジデントオンライン

松崎英吾氏と窪田良氏の対談を2回に渡ってお届けしている。「多様性」がキーワードになった前編に続き、組織を強くするビジョンについて語り合った。

全盲の選手が出場するブラインドサッカーは、2020年東京パラリンピック実施競技に選ばれた。 チームの実力を上げるとともに事業展開にも力をいれる日本ブラインドサッカー協会。その2代目事務局長に就任した松崎英吾氏が最初にしたことは、「ビジョンづくり」だったという。

ベンチャーにも通底するプロセスだが、松崎氏と窪田氏にとって、どういったチャレンジがあったのだろうか。

■価値を提供する事業への転換

【松崎】チームのメンバー1人1人のパフォーマンス向上と、チームの実力を上げることのほか、やはり障がい者スポーツ全体の問題として資金調達をどうするかがいつも課題に挙がります。

われわれの場合は、収入の8割くらいが企業からいただいている支援で、国からの助成金・補助金に頼ってこなかったところが、他の団体とは大きく異なるところです。それってまだ珍しいケースなんです。小さいものも含め70団体くらいある障がい者スポーツ団体の中で、事務所を構えて常勤のスタッフもおいて運営しているのは唯一、ブラインドサッカーだけです。

【窪田】この方法論でやれば、障がい者スポーツをもっとビジネスとして成立させることができる。社会福祉だけではなく、自立できるスポーツへと発展させることができるという考えは、どこからヒントを得て実現へと組み立てたのでしょうか。

【松崎】私が会社を辞めた時点での話をすると、そこまで確固たるビジネスモデルがあったわけではなかったんです。逆に「なんでこの状態で会社をやめちゃったんですか?」って、のちのちメンターになっていただいたベンチャー企業の社長に言われるくらいお粗末だったらしいんですね。「これだけ魅力があるものをサステイナブルにできないわけがない」という直感的な思い込みが原動力でしたから。

事務局長に就任した後に痛い思いをしながら、1つ大きな気づきがあったのが、障がい者スポーツというのは「かわいそう」だとか「困ってるから助けてくれ」という目線の先に存在しているということでした。今もそういう側面は残っていますが、われわれはそれを価値提供できるものへと発想を転換させたんです。これはすごくシンプルな発想だったんですけど、事業設計をすべて変えたという意味では大きなイノベーションにつながったと思います。

【窪田】たしかに、趣旨とは外れるかもしれませんけど、ブラインドサッカーを健常な小学生に体験してもらうのって、ビジネスではコーチングや、チームビルディングをするときのコラボレーションを考える手法にも使えますよね。

【松崎】ええ。まさにその分野での研修としてニーズは伸びています。マネタイズには大切な分野になりました。

【窪田】ブラインドサッカーの選手がコーチの1人として参加してお手本を見せて、対価を提供される。その方たちの個性を生かしたビジネスが成立する。まさに新しいビジネスの発想ですよね。

■神輿の担ぎ手にワクワクする

【窪田】自分の一生という限られた時間を何かに費やそうと思った時に、自分が心の底から共鳴できる普遍的な価値観を持つことは重要ですよね。それが大きければ大きいほど、より多くの人が共鳴できるものであるほど、多様性をもった人が参画してくれて、その多様性が組織の強みにつながる。そして苦難を乗り越える適応力が高まる。

それを考えて、私は、言語、宗教、人種を超えて共鳴できる価値観っていうものを尊重してきました。松崎さんは、この辺りをどう考えていらっしゃいますか。

【松崎】そうですね。やっぱり我々の場合はお給料で縛れる関係性だけではないですよね。非営利なので、ボランティアで参加してくださる方もたくさんいらっしゃいます。やっぱり大きな傘を広げるというのは窪田さんと同じ部分かと思います。それを体現できる事業ラインアップがちゃんとあるということが説得力にもつながるのかなと思います。

その傘自体に入っていくこと、もしかしたらお神輿なのかもしれませんが、そのお神輿の担ぎ手になることがワクワクする。この気持ちがすごく大事だと思います。

【窪田】ワクワク感もそうですし、プライドを持てることをやれるっていう感覚を、みんなに持ってもらえるビジョンを掲げるというのは非常に重要ですよね。

【松崎】ボランティアさんも、ブラインドサッカーを手伝っていること自体を誰かに話したくなるとか。こういう気持ちを持ってもらえるって大事です。

実は、僕がファウンダーでも初代事務局長でもなかったことが1つの悩みだった時期があったんです。思い入れはあって、こうありたいという姿も持っていたんですけど、なかなかそれを理解してもらえなくて、「君が事業のことだけを語っても、それが何のためになるのか」と言われたこともありました。いわゆる、錦の御旗がしっかりしてなかったんです。ビジョンがなかった。だから僕が事務局長になって最初にやったことが、ビジョンづくりでした。

それを、2代目事務局長の僕が勝手につくりましたっていっても誰もついてきてくれないので、ボトムアップでつくったんですね。最終的には僕の思いが強く反映されたものになりましたけど、みんなの意見を聞いて、みんなを巻き込んで、方向性がひとつにまとまりました。

こんなビジョンはだめだという反発がでてくることはありました。ビジョンを語り合い浸透させるための1泊2日の合宿をするなどして、コアな人たちがこのビジョンを把握し、それぞれの事業がこのビジョンのうえに成り立っているんだということを理解してもらいました。その結果として組織をより強化することにつながりました。

【窪田】新しいことをやれば軋轢はありますし、全員が100%賛同するというのはほぼありえません。その中で松崎さんはぶれずに進まれている。それが結果的にブラインドサッカーを事業団体としてもスポーツ団体としても大きく成長させている。結果がついてくると成功のパターンとしても証明されるわけですよ。

もちろんそこに先人がいて、別のビジョンをかかげ、別の方向性を目指し、別の結果を導いていたとしたら、また別の道があったかもしれません。でも松崎さんが抱いていたビジョンはほかの人が考えるものとは違ったし、それをやってのけた人もいなかった。

■障がい者スポーツでチケット有料化

【窪田】少し話は変わりますけど、去年の世界選手権でチケットを有料化に踏み切ったと聞きました。サステイナビリティを担保するためとはいえ、葛藤もあったかと思います。

【松崎】信念と覚悟で踏み切りました。この業界で僕たちの立ち位置はフロントランナーなんです。もちろん、われわれの中にも保守的な人はいましたけど、この大会を区切りにがらりと見方がかわったと感じています。ブラインドサッカーがいろんな取り組みをしているとか、新しいことに挑戦しているという印象を持ってもらえるようになりました。

僕らが世界選手権をやるのに有料にしなかったら、これから2020年に向けていろいろな競技が大会を招致していく中で、有料化に二の足を踏むだろうと思いましたし、僕らとしても興行したいというよりも、お金を払って見る価値のあるものだということを社会に浸透させたかったんです。そういう意味で有料化へのシフトは必然的ではありました。

もちろん、いくらにするかは葛藤の連続でした。結局500円から2,500円の価格帯になったんですけど、2,500円を高いという人もいました。ふらりと来て当日券が2,500円だと聞いたとたんに帰ってしまう人もいました。

【窪田】ちょうど入り口付近にいた時に、たしかにそういって帰られる方がいました。見ているほうが息をのむほど迫力ある試合だということを、ご存知なかったんでしょうね。

【松崎】「ふらっと来てもいつでも観られるものなんでしょう」「ガラガラなんでしょう」っていう印象があるのが障がい者スポーツなんですよ。

世界選手権が開催される1週間前まで、現実になってほしくないことを夢に見ることがありました。観客が3人しかいないとか、僕と大坪というスタッフが会話をしていて、大坪はチケット販売の責任者でもないのに、僕はその大坪に怒っているんです。

幸いにして開幕戦の3日前にチケットが完売したので少し安心できました。当日は満席で立ち見する観客も出るくらいだったんです。有料化の道を実現できたところは、障がい者スポーツの歴史に残るべき大会になったなと思っています。

【窪田】世界的に見ても有料の大会は少ないんですか。

【松崎】4年前にあった全国大会では500円だったんです。満席になるほど来場者があったのは今回が初めてです。どの参加国もこんな雰囲気のブラインドサッカーの大会は初めてだったとおっしゃっていました。

【窪田】来場者数をはじめから予測することはできませんからね。

【松崎】そうなんです。実はスタンドは特設でつくりました。お金もかかりましたけど、その規模をどこまでにするかが非常に悩ましかったです。

【窪田】横断幕もそうそうたる企業がスポンサーについていましたよね。法人営業のスタッフもいらっしゃるんですか。

【松崎】はい。法人営業は相当がんばっています。

【窪田】2020年に東京パラリンピックが開かれますけど、それに向けた具体的な事業計画や、チームの目標は立てていらっしゃるんですか。

【松崎】組織としては日本代表がメダルを取ることです。興味を持ってくださった方たちのために、成し遂げなければならないミッションです。そして、未来を担う子供たちのために、それができる環境をつくっていくための何かを示していきたい。

2012年パラリンピックが開かれたロンドンでは、「1つになろう」が成功したと言われています。個人的にはそのロンドンを超えなければいけないと思っています。そういう点では多様性に意義をもたせなければいけないと感じています。ですので、ブラインドサッカーという立場にこだわって活動をしてきたんですけど、そこから少し目線をあげて活動をしていく必要がある。そこにはもちろんチャレンジもあります。

■パラリンピックの「後」を見据える

【松崎】あとは個人的に、2020年以降に組織基盤強化が大きな課題になると考えています。障がい者スポーツの多くは助成金や補助金頼みなので、成功したと言われるロンドンの事例ですら、ブラインドサッカーは5割の予算カットになっています。その2年後にあたる2014年には予算から7割が切られていました。オリンピックとパラリンピック開催までは右肩上がりなんですけど、終わった途端に予算カットの対象になる。この時に困るのは当事者たちなんです。

【窪田】社会に一定の役割を果たせるサービスを提供できるのであれば、しっかりとビジネスモデルを築き上げて、資金調達を含めて継続できる事業にしていくという道を開拓できますよね。つまずくことはあったかもしれませんが、なさってきたことの価値は大きいと思います。

【松崎】はい。このノウハウはシェアしていきたいですし、こうやったらうまくいくというよりも、こうやったら失敗したよっていうのも財産だと思うんです。

去年の世界選手権を終えて、やっと周りの人たちが、新参者で外部からきた僕のような人間にも少しずつ耳を傾け初めてくれたので、すごくいい契機になったなと思っています。僕がどこまでできるかはまた別の話ですけど、ブラインドサッカーだけにとどまっていてはわれわれが目指す社会は実現できないので、ブラインドサッカー、そして他団体の皆さんとで合従連衡を進めていきたいですね。

【窪田】ブラインドサッカーの海外との連携や、事業を国際的に展開する計画は考えておられるんでしょうか。

【松崎】個人的には日本での活動を世界に広めたいと思っています。いろんなご縁もあって、国際組織の役員や、アジア圏の代表にも就任しました。

資金調達をして事業モデルを築いていくところが、僕の経験を活かせるところだと思うので、ファンドレイザーの肩書きをもらって去年から活動を始めています。

世界に目を向ければあらゆることの文脈が変わります。スポーツを通じた部分であったり、パラリンピックが世界でプレゼンスを上げてきていたりする中でいうと、平和の祭典の色が薄まりつつあるオリンピックも、パラリンピックがあることでその役割を補っていると言えます。ビジョンに誠実な姿勢が、商業主義と並存できるようになってきたと考えています。

障がい者スポーツの世界では、ブラインドサッカーはものすごく小さな団体なんですけど、そこからスケールしていくことで他にも波及していく。こういうことは日本でもありえるし、世界でもありえると思います。

【窪田】垣根を取っていくということですね。社会を見渡すと障がい者と健常者は分けられて生活をしていることに気がつくし、そこに疑問を持たなかったことにも気がつきます。今まで分かれていた世界がひとつになるというのは、多くの人に勇気を与えますよね。

健常者であっても生きがいがなかったり、何をしたらいいのかわからない、自分がやりたいことがわからないという話を聞いたりします。そういう方にとって、何かひとつ見つけて打ち込むのは、こんなに素晴らしいことなんだということを知ってもらう力強いメッセージになりますね。

----------

松崎英吾(まつざき・えいご)●1979年生まれ、千葉県松戸市出身。日本ブラインドサッカー協会事務局長。国際基督教大学在学時に、運命的に出会ったブラインドサッカーに衝撃を受け、関わるようになる。大学卒業後は出版社に勤務し、業務と並行してさらに協力し続けていたが、「ブラインドサッカーを通じて社会を変えたい」との想いから、日本視覚障害者サッカー協会(現・日本ブラインドサッカー協会)の事務局長に就任。「サッカーで混ざる」をビジョンに掲げる。また、スポーツに関わる障がい者が社会で力を発揮できていない現状に疑問を抱き、障がい者雇用についても啓発を続けており、サスティナビリティがあり、事業型で非営利という新しい形のスポーツ組織を目指す。2児の父。 >>日本ブラインドサッカー協会 http://www.b-soccer.jp/

窪田 良(くぼた・りょう)●1966年生まれ。アキュセラ創業者であり、会長、社長兼CEO。医師・医学博士。慶應義塾大学医学部卒業後、同大学院に進学。緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見する。その後、臨床医として虎の門病院や慶應病院に勤務ののち、2000年より米国ワシントン大学眼科シニアフェローおよび助教授として勤務。02年にシアトルの自宅地下室にてアキュセラを創業。現在は、慶應義塾大学医学部客員教授や全米アジア研究所 (The National Bureau of Asian Research) の理事、G1ベンチャーのアドバイザリー・ボードなども兼務する。著書として『極めるひとほどあきっぽい』がある。Twitterのアカウントは @ryokubota 。 >>アキュセラ・インク http://acucela.jp

----------