創設100年山口組が大分裂 「山一抗争」を超える報復合戦も | ニコニコニュース

 創設100年を迎えた山口組に亀裂が走った。司忍(本名・篠田建市)組長体制に反旗を翻した反主流派の傘下団体組長らが、袂を分かって新組織の結成に動いたのだ。

 過去にも山口組には分裂に伴う激しい抗争があった。1984年、竹中正久・四代目山口組組長の就任に反発した山広組の山本広組長ら幹部が脱退し、一和会を立ち上げた。

  翌1985年、竹中組長と中山勝正若頭が一和会系のヒットマンにより射殺。組織のトップとナンバー2が同時に殺されたことで、山口組は即時報復に転じ、抗争が勃発。全国各地で317もの抗争が発生し、双方で25人の死者を出す「山一抗争」へと発展した。

  この事件では、市街地でも襲撃が行なわれ、民間人も流れ弾に当たるなどの被害も出ている。

 「関わる人数だけでいえば今回は山一抗争の倍以上の規模になる。報復合戦になれば、全国で抗争が起こり民間人も巻き添えになるケースもあるだろう」(捜査関係者)

 ここであらためて、「山口組100年の歴史」を年表で振り返ってみよう。

【山口組100年の歴史(年表中敬称略)】

1915年/山口組が港湾労働者を中心に神戸市で結成。組長は山口春吉。

1946年/田岡一雄が三代目を襲名。30数人だった組織が1000人規模にまで成長。

1953年/後に山口組若頭になる山本健一らが人気俳優の鶴田浩二をウィスキー瓶とレンガで殴りつける事件が発生。

1964年/警視庁をはじめとする全国の警察が「第一次頂上作戦」なる暴力団全国一斉取り締まりを開始。山口組も多くの幹部が逮捕され、複数の傘下団体が解散した。

1969年/田岡一雄が恐喝容疑や威力業務妨害容疑で書類送検される。

1975年/豊中市内の喫茶店「ジュテーム」で二代目松田組系の集団が山口組系組員3人を射殺、1人に重傷を負わせる。山口組と松田組による「大阪戦争」が勃発。

1978年/田岡一雄が京都のクラブ・ベラミで松田組系に狙撃される「ベラミ事件」が起きる。その報復で松田組は10人近い死者を出し、崩壊に追い込まれる。

1981年/田岡一雄が急性心不全で死去。

1984年/竹中正久が四代目を襲名。これに山口組組長代行の山本広らが反発。反竹中派が「一和会」を結成し、いわゆる「山一抗争」が始まる。

1985年/竹中正久が吹田市内のマンションで待ち伏せしていた一和会系組員に殺害される。山口組による報復が激化。

1989年/一和会会長の山本広が引退。一和会は解散し、山一抗争が終結。双方で25人の死者を出す。同年、五代目を渡辺芳則が襲名。

1992年/「暴力団対策法」が施行され、暴力団への締め付けが強まる。

1997年/神戸市内のホテルの喫茶室でナンバー2の若頭・宅見勝が山口組中野会系の4人組に射殺される。流れ弾に当たった歯科医師も死亡した。

2005年/渡辺芳則が引退を表明。司忍が六代目を襲名するが、これに関して司らが渡辺に引退を迫ったという「クーデター説」が流れる。

2011年/銃刀法違反で府中刑務所に収監されていた司忍が出所。

※週刊ポスト2015年9月11日号