神になりたい若者たちと、創造できるまち | ニコニコニュース

プレジデントオンライン

■「神になれるから」

地元・福井大学の公開講座で、若者とまちづくりについてトークセッションしたときのことです。「鯖江市役所JK課」の1期生で、今でもゆるくまちづくりの活動に関わっている元JK課の卒業メンバーに、「JK課や鯖江での活動は、なんで楽しいの?」と聞きました。すると、彼女はしばらく沈黙した後、こう答えました。

「神になれるから、じゃないですか?」

彼女の言葉に、会場は湧きました。当日は、受講者が手元のスマホから匿名でコメントできる掲示板を設置していたのですが、「神になりたいっていうの、分かる!」「なるほど!」という声が相次ぎました。

「神になる」というのは、もちろん極端な比喩表現でしょうが、「社長になりたい」とか「大臣になりたい」といった、ヒエラルキーのトップに立つというのとは違うことなのだと思います。

普段僕たちが「あいつ、神だわ」というとき、王様や大臣のような頂点に立つ人物はあまり連想していません。その分野や現象における「圧倒的な存在感」や「新しい基準をつくりだした人」などを「神」と呼んでいるわけです。そしてそれは、たくさんいてもいいんです。日本には古くから「八百万の神」という言葉もあるくらいですから。

彼女が言った「神」も、「小さくてもいいから、その場にないものを自分でなにかつくり出す」ということを意味していました。「その“神体験”が魅力的で、それが鯖江のまちで実現できた」と言います。

鯖江市は、実は福井県のなかでは経済力が高いほうではありません。商圏も小さい。それでも、たくさんの学生や若者が地域活動を求めて集まってきています。それは、何かがそろっているからではなく、「何もない」ことを認め、「つくってもいいよ」または「一緒につくろう」という創造を促すムードがあるからなのだと思います。「鯖江市役所JK課」も、そうやって実現されました。

■あいまいな市民感覚と、創造の欲求

僕は公開講座の前半で、「まちづくり」と「都市計画」の違いについて話をしていました。「まちづくり」という言葉はひらがなで表記されるのが一般的ですが、それには意味があるようです。文献を調べていくと、「まちづくり」とは、ある言葉の対立概念として登場したもので、それが「都市計画」だというのです。

「都市計画」とは、綿密な計画のもと、国が官僚主導で都市機能としてのインフラをきっちり整備していくことです。橋をひとつ架けるにしても、特定の誰かの要望だけにこたえるわけにはいかず、市民にとって公平な条件になるよう検討されて粛々と実行されるのが、都市計画です。

ただし、それが一通りできあがって、ハード面での都市機能が整ったからといって、人々の暮らしが完成するわけではありません。地域のにぎわい・活気や人間関係など、ソフト面のさまざまな問題がでてきます。

それらの問題を扱うために必要だとされたのが、「まちづくり」だったのです。「まち」とは、「都市」に対してかなりあいまいな概念で、そこにあつまっている人たちが生活の拠点としている漠然とした共同空間を、あえてひらがなで「まち」と呼んでいます。そしてそこには、国や官僚には把握することが難しい「市民感覚」があり、それを引き出していくことが狙いでした。

その「感覚」は、時代とともに大きく変わってきているようです。

まちに暮らす若者たちの多くは、もはや目新しいサービスやイベントなどを欲しているわけではありません。もちろん、地域社会の問題解決を熱っぽく考えているわけでもありません。なにか小さなことでいいから、自分でつくりだすという「創造の体験」を強く求めているのです。

小さなまち、なにもない地域は、それはそれでチャンスです。「創造できるまち」や「創造してもいいまち」に、若者たちが魅力を感じてこぞって移り住むようになる日がやってくるかもしれません。