難題を解決し続けた「素其位行」 -三井造船会長 加藤泰彦【1】 | ニコニコニュース

三井造船会長 加藤泰彦氏
プレジデントオンライン

■高速計算の連続で未踏の世界に至る

1990年7月、43歳でデンマークの会社へ引き渡したコンテナ船「AROSIA号」の設計は、経験のない難問が続いた。

当時のコンテナ船の標準では、船倉に10個のコンテナを横に並べ、デッキ上にも同様に5段くらい積んだ。だが、船主は、効率を上げるために11個並べたい、と要求した。しかも、船の横幅は、標準設計の32.26メートルのまま。世界中を自在に航行できるように、パナマ運河を通過できる最大幅の範囲内にするためだ。

船主は、そのように、設計者に難題を突き付ける。でも、それを克服するのが自分たちの責務。そこに、ひたすら集中すればいい。そう思って始めたが、簡単ではない。苦しんだのは、最も重要な中央部のデッキ鋼板の厚さの決定だ。

コンテナが11個になると、負荷やバランスが変わるから、すべて計算し直す必要がある。大半は英国企業を使ったが、核心となる歪みや溶接の必要量の解析は、自らやった。船は航行中、波を受けて前後にたわみ、たわみは物体の変形や破壊をもたらす応力を高める。計算すると、その応力が限界値を超えないためには、鋼板の厚さは65ミリ必要、と出た。

普通は厚くても20ミリ程度、65ミリもの鋼板を中央部で溶接した経験などない。千葉事業所の造船現場から「溶接して、ちゃんと強度をもたせるのは大変、造れない」との声が出た。でも、溶接の条件をいろいろと変えてみて、解決法をみつけてくれた。

難題は、もう1つあった。通常は船倉が7つあり、そこにコンテナを全部積んでくれれば、問題はない。ところが、船主は船倉が1つ置きに空になっても、支障がないようにしてくれ、と言う。

港で荷物を下ろした船倉は空のままに、他は積んだままにして、すぐに次の港へ向かいたいのだ。そうすると、重心がかなり上がり、波を受けて航行する際の強度が余計に必要となる。やはり応力を制限以下に抑えるため、いろいろ条件を設定し、計算を繰り返す。

引き渡しに際し、航行させてみると、無事に海を走ってくれた。正直言って、計算結果に100%の確信まではなかったから、安全率を余分に見込んだ。でも、あのすごくうれしかった気持ちは、忘れない。大変だったが、技術者としての責務を果たせた。

振り返ると、不思議に、会社でも経験のない領域に取り組む仕事が続いた。30代の終わりに引き渡したVLCCと呼ぶ大型タンカーの設計では、応力や振動の影響など大規模な計算が必要だった。それを期限内にこなせる高速コンピューターは当時、国内に2台。その1台を借りて、ひたすら計算を繰り返し、未踏の世界に至る。

「素其位而行、不願乎其外」(其の位に素して行い、其の外を願わず)――正しく徳のある人は、地位や使命を自覚し、それを果たすべく努力を貫き、それ以外のことは考えない、との意味だ。儒教の四書の1つ『中庸』にある言葉で、任された難題も正面から受け止め、責務を果たすことのみに邁進する加藤流は、この教えと重なる。

厳しくても、新しいことに挑戦することが好きだった。常々、人に言われたありきたりの仕事をするのは嫌だな、と思っていた。いろいろ注文をつけられ、「こうやってくれ」と言われても、その通りにやって返すのでは物足りない。「こうしたほうがいいのではないですか」と言いたい。加藤流には、そんな性格も、背後にある。

1947年5月、北海道空知地方の赤平で生まれる。両親は愛媛県の出身で、父が勤めていた石炭会社の赤平炭鉱へいた当時だ。弟が2人の5人家族。自宅の裏が山で、冬はスキーを担いで登っては滑り降り、楽しんだ。

2年生になるときに東京へ引っ越し、杉並区の小学校へ転校。だが、中学1年の夏に父が佐賀の炭鉱へ転勤となり、また家族で移る。福岡市に4年いて、テニスを始め、県立修猷館高校へ進んだ。ところが、1年が終わるときに父が東京へ戻ることになり、都立日比谷高校へ転校。結局、小・中学校、高校とも、2つずつ通った。

早大理工学部の機械工学科では、かなり本気で勉強し、大学院は材料力学の研究室。就職では、その知識を活かして大きなものを造りたいと思い、三井造船を選ぶ。

■前例のない設計船主の提案を実現

73年4月に入社し、本社の船舶・艦艇事業本部の基本設計部へ。エンジン周りの機器の配置を受け持つ機関グループに1年いて、2年目に構造グループへ移る。たわみや応力などを計算し、形状や材料などを決める部署だ。

そこで社内の留学生募集に応募し、合格した。75年夏、英サザンプトン大の大学院へ留学。近代的な造船技術の起源は英国にあったし、そのころ、あらゆる構造物の解析に有用な手法が登場し、その権威がサザンプトン大にいた。

ロンドンから南へ電車で約1時間。タイタニック号が処女航海へ出た港町の寄宿舎で、やはり「素其位行」の日々を過ごす。最短の1年で修士号を取り、もう1年あったので、ロンドン大の大学院で造船科学でも修士号を得た。早大と合わせ、3つの修士号となる。

帰国して古巣の構造グループへ復帰。30代半ばは千葉の設計部で過ごし、液化天然ガス(LNG)運搬船の設計が始まる。三井造船としては初めて手がける船種で、収益を支える柱に育て上げていく。

91年1月、43歳のときにノルウェーの会社に引き渡したばら積み船「Grouse Arrow号」の設計も、冒頭のコンテナ船と同様に、難題が続いた。米シアトル港でパルプからつくった大きなロールペーパーを積み、日本に運ぶ。途中、雨が降ったり、時化で波をかぶったりすると、ロールが濡れてしまう。シートをかけても、完全には防げない。

船主が、斬新な案を出した。船上を体育館のようなもので覆い、左右にクレーンを付け、窓のような部分から積み下ろしする。前例がない構造だ。船長は175メートルで、クレーンが前後に走るレールは100メートルを超す。デッキの厚さや「体育館」の壁は、コストや燃費をよくするために薄い。そこを重たいクレーンが走ったとき、あまりたわんでは、動きが止まってしまう。

どれだけの強度が必要か、間に支柱がどれだけ要るか、支柱はどこまで軽くできるか。ここでも計算の連続とその答えを満たす材料選びで、苦労した。20年以上も前のことだが、仕上げた構造は、いまでもすらすらと書ける。頭に強く、焼き付いている。

この型の船は3隻つくったが、その後は例を聞かない。鋼材をたくさん使い、いろいろ仕組みも必要だったので、コストがかかる。もっと安く覆う方法がみつかったのかもしれないが、このときのコスト管理の感覚は、のちにLNG船建造でプロジェクトマネジャーを務めたときに、役に立つ。

50代になって、千葉事業所の基本設計部長に就き、ロンドンで現地法人や発電所用大型ボイラーを手がける子会社の社長を計5年半、務めた。帰国して半年後の2007年6月、社長に就任。設計者から管理者へ、さらに経営経験の道へと転じたのは、トップに立つための助走となる。

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三井造船会長 加藤泰彦(かとう・やすひこ)
1947年、北海道生まれ。73年早稲田大学大学院理工学研究科機械工学専攻修了、三井造船入社。99年船舶・艦艇事業本部基本設計部長。2001年三井造船ヨーロッパ社長。04年4月ミツイバブコックエナジーCEO。04年6月三井造船取締役、07年社長。13年より現職。

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