居酒屋の誕生は江戸にあり! ちょっと一杯飲みたくなるお酒の歴史 | ニコニコニュース

『居酒屋の誕生』(飯野亮一/筑摩書房)
ダ・ヴィンチニュース

 年末年始は何かとお酒を飲む機会が多い。忘年会シーズンの現在では、日頃のうっぷんを晴らすかのように、浴びるほどお酒を飲んでいる人たちも多いのではないだろうか。

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 さて、庶民にとってのお酒を楽しむ場所といえば「居酒屋」が定番だ。個人店やチェーン店など、今やいたるところで見かけるようになったが、その発祥が“江戸の町”にあったと解説するのは、文庫本『居酒屋の誕生』(飯野亮一/筑摩書房)である。

 同書によれば、居酒屋の誕生は寛延年間(1748~51年頃)にさかのぼるという。居酒屋という言葉が使われるきっかけとなったのは、現在の江東区深川付近にあったという「江戸三十三間堂」での事故とされるが、宝暦2(1752)年に記録された書物『正宝事録』に、その詳細が記録されている。

深川の三十三間堂(富岡八幡宮の東側)が、享保15(1730)年8月の風雨によって吹き倒され、再建されないままになっていたのを、寛延2年秋頃、2人の人物が、堂の周りの地面を借地し、煮売茶屋、居酒屋などを建て、その収益金で3年以内に三十三間堂を造立したいと奉行所に願い出て、許可され、今年の夏(宝暦2年)に堂ができ上がった

 文中の煮売茶屋とは、煮物や簡単な食事、飲み物やお酒を提供する茶屋のことである。今でいうお酒も飲めるカフェといったところだが、当時は、幕府の命令により業種が分類されていた。そもそもは酒屋で酒を飲むという慣習が庶民の中で「居酒(いざけ)」と呼ばれ始めたことから称されるようになったため、当初は酒屋と同じ業種に扱われていたが、のちに、飲食店の仲間入りを果たしたという。

 そして、酒屋からの転業、新規参入が相次ぎ、19世紀初期の調査では1808軒にも広まったという江戸の居酒屋。現代と同じく、お酒を片手に庶民が語り合う様子も想像できるが、当時の人たちはどんなお酒を楽しんでいたのだろうか。

 同書によれば、現在の京都や大阪などの畿内地方を表す“上方(かみがた)”から運ばれてきた「諸白(もろはく)」と呼ばれる、清酒に近いものが主流だったという。歴史をさかのぼると、織田信長も好んで飲んでいたという諸白は、俗に“下り酒”または“下り諸白”と呼ばれ、多くは海上輸送により江戸へと運ばれていた。

 また、時間をかけて運ばれた下り酒には「上方では味わえない付加価値が付いた」と同書は語る。その理由は、輸送中の変化によりうまさが増したことにあり、書物『万金産業袋』には、特に名産といわれた「伊丹酒」についての下記のような記述がある。

「作りあげた時は、酒の気ははなはだ辛く、鼻をはじき、何とやらん苦みの有やうなれども、遥の海路を経て江戸に下れば、満願寺は甘く、稲寺には気あり、鴻の池こそは甘からず辛からずなどとて、その下りしままの樽にて飲むに、味ひ格別也。これ四斗樽の内にて、浪にゆられ、塩風にもまれたるゆへ酒の性やはらぎ、味ひ異になる事也」

 海上輸送によりうま味が増すという話を受けて、上方ではさらに、江戸へ運び出した酒をいったん戻して、よりいっそう熟成させる「富士見酒」も人気を集めたという。

 娯楽の限られていた時代に、諸白を手にした江戸の人たちはどんな会話を交わしていたのだろう。お酒が好きな人にとってみれば、同書のような話を聞くだけでも今すぐ「あ~、飲みたい!」と、ついつい思いがわき上がってくるかもしれない。当時の江戸を思い浮かべながら一杯ひっかけるというのも、それもまた“粋”な飲み方のひとつといえそうだ。

文=カネコシュウヘイ