大事にすべきは学歴ではなく「職歴」です | ニコニコニュース

歴史作家の泉秀樹さん。慶應義塾大学文学部卒。
プレジデントオンライン

■産経新聞で、憧れの遠藤周作を担当

「社会人になって、学歴で得をしたことは1度くらいですね。学歴は大切ですが、職歴も大切なのではないでしょうか。産経新聞に勤務していたことで、ずいぶんと得るものがありました」

歴史作家の泉秀樹さん(72)が、ハスキーな声で語る。

泉さんは「J:COM湘南」で放送されている歴史ドキュメンタリー番組『歴史を歩く』の原作とナビゲーターを担当している。神奈川県を中心に日本各地の歴史の舞台となった場所を訪ね歩き、そこに隠されたエピソードを、独自の視点でわかりやすく解説・分析する。源実朝の暗殺の謎や徳川家康の影武者、伊藤博文の4つの別荘についてなど、毎回、歴史の意外な一面を知ることができる。

泉さんは、そんな番組を「週刊誌に似ているところがあるかもしれない」と話す。2012年から放送が始まり、視聴率はJ:COMの数ある番組で、常時ベスト3にランクされる。関東全域で観ることができる。過去の番組はネット上でも放送されていて、静かにファンが広がっている。番組の原案は、泉さんによるもので、それらをまとめた文庫が、この12月に発売された。「歴史を歩く 深掘り神奈川」(PHP研究所)。

泉さんは1943年、静岡県浜松市で生まれた。父は戦死したため、母が料亭などを経営しながら育て上げた。この料亭には、本田技研工業の本田宗一郎やスズキ自動車の社長などが通っていた。小学生の頃に、祖母の影響で講談の魅力にひかれはじめ、高校では漢文が得意だった。慶應義塾大学文学部では、中国文学を専攻した。卒業する頃、学生運動が華々しい時代になっていた。

「私は右翼ではないのですが、左翼の思想には生理的に嫌悪感がありました。学生運動にも否定的でした。大学の値上げ賛成の立場でしたから、教育はお金を払い、買うものだと思っています。周囲の学生は"反対"の立場ばかりで私から離れていきましたが、あえて仲良くしたいとも思いませんでした」

1965年、慶應義塾大学文学部を卒業後、産経新聞社に記者として入社した。全国紙の朝日、読売、毎日は受験しなかった。作家と知り合いたくて文化部を希望したが、『週刊サンケイ』編集部に配属された。編集部には、その後、退職し、東京タイムスや美術雑誌の編集長になる記者たちがいた。

入社1年目で担当をしたのが、母校・慶應大学の先輩である芥川賞作家・遠藤周作氏だった。当時、『沈黙』(新潮社)が上梓された直後で、精力的に執筆活動を展開しているときだった。

■人とのつながりに救われた退職後の人生

泉さんは自らが書いた小説を遠藤氏が読んで、助言をしてくれたことを数日前の出来事のように振り返る。

「400字詰め原稿用紙40枚ほどの短編を、遠藤先生が読んでくださったのです。すばらしい! とおっしゃってくれて、うれしさのあまり、舞い上がってしまいました。ところが、3か所に赤入れがしてあり、それを検討してみると、小説としては成立していなかったのだな、と思いましたね(苦笑)。結局、18回書き直しました」

作品は、遠藤氏が編集長をしていた『三田文学』(慶應義塾大学)に掲載された。

この頃、スクープ記事を書いて、2つの局長賞を受賞した。1968年の夏、陸上自衛隊の武山駐屯地(神奈川県)の敷地内の「やすらぎの池」で起きた、少年工科学校生徒の訓練事故である。渡河訓練で池の深みにはまった13人の少年自衛官が命を落とした。事故の直後、偶然にも、泉さんは駐屯地の横を産経新聞の車で通りかかった。カメラマンと一緒に現場に急いで駆け付けた。

「池から救いあげられた少年自衛官の意識はすでになく、鼻の穴から泥水がダラダラと出てきたことは覚えています。びっくりして、いや、ほんとうに驚きました。彼らは若くとも、国を守る、という一心で訓練をしていたのでしょうね。あの少年たちの遺族や関係者に会って、お話をしたいと今でも思います」

その後、産経新聞社を退職した。3年10カ月の勤続だった。遠藤周作氏のような作家になりたい。そんな思いを抑えることができなくなっていたという。遠藤氏に退職の報告をすると、驚きの表情を見せたものの、仕事をさっそく紹介してくれた。旅行雑誌『旅』(日本交通公社・当時)の「山城めぐり」という連載紀行で、泉さんには山の上にある城跡の写真を撮影する仕事をあたえられた。

「当時から、私は文章を書くことよりも、撮影のほうが上手いのです。信長の安土城などは、印象に特に強く残っています。山城は、おもしろいですよ」

これが、歴史に進んでいく大きなきっかけとなる。泉さんは、遠藤氏が道を開いてくれたと思っている。しばらくは仕事も少なく、食えない時代が続く。その頃、支えられたのが、産経新聞のときのつながりだった。産経新聞を辞めて、美術雑誌『月刊美術』の編集・発行人になっていた先輩記者・中野稔氏(故人)から、画家の斎藤真一の絵を買うことを勧められる。親から借りた16万円で購入したところ、急きょ、美術ブームが湧き、半年後に250万円で売れた。これで、半年分の生活費をまかなうことができたという。

新橋の駅では、『週刊サンケイ』の元編集長・松本暁美氏と偶然、会う。かつての上司である。そのときは、編集プロダクションの社長になっていた。すぐに、大きな仕事をあたえてくれた。2週間、週刊誌のアンカーとして書き続けると、200万円になった。

「2人の娘がちょうど、私立の小学校や幼稚園に進学する時期で、入学金などで200万円が必要になっていたのです。ありがたかったですね。30代になっていたこの時期は、学歴ではなく、職歴ですよ。職歴は生涯、ついてまわりますから、大事にすべきですね。私は産経の頃から、俗流ジャーナリズムの世界でメシを食わせてもらいましたね」

■本には人生の智恵が詰まっている

1973年、小説『剥製博物館』で「新潮新人賞」を受賞した。これをきっかけに仕事の依頼が続く。歴史ものの作品も増えていった。しだいに作家としての足場を固める。

この頃に知り合ったのが、詩人の田村隆一氏だった。泉さんは、田村氏は「文章の天才」だという。

「今、活躍している著名な詩人も、田村先生を越えることはできませんよ。カネになる文章の書き方を教えていただきました。私がまだ迷いのあった30~40代の頃、君はモノを書いて生きていくことができると何度もおっしゃっていただいたのです。大きな励みになりましたね」

その後も歴史に関する書物を書き続け、今では70数冊になった。最近は、ネットにも書く。Webサイト『NEC Wisdom』では毎月、戦国の人物評伝『乱世を生きぬく智恵』を書き下ろし、アクセス数1位の人気連載となっている。

94歳となった母は、地元・湘南のタウン誌『湘南百撰』の編集・発行人をしている。その雑誌にも、泉さんはコラムを寄せている。

年末12月30日、31日には、歴史番組『歴史を歩く』のスペシャル版が放送される。タイトルは『鉄砲伝来ときりしたん』である。泉さんは「鉄砲とキリスト教の伝来が日本の近代化の種になったのですが、番組ではその影響がどんなものであったかを描いています」と説明する。

九州・種子島や長崎などに、番組のクルーと取材に出かけた。

「キリスト教に熱心だった遠藤先生に導かれたような思いです」とかつての恩師への感謝の念を忘れない。

最後に、こんなアドバイスをしてくれた。

「自分は学歴があるのに出世できない、などと悩む人はどうか、本を読んでほしい。ネットやテレビのようなデジタルだけに頼ると、考える力が弱くなります。アナログな本には、すばらしい人生の智恵がいっぱい詰まっています。本を読まないなんて、もったいないですよ」