新連載コラム「なんでゲームは面白い?」第一回:「ゼビウス」が「隠す」ことで与えた世界の「意味」 | ニコニコニュース

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 今回から始まったブロガー・hamatsuさんの連載「なんでゲームは面白い?」。ゲームの魅力を画面や操作の具体的な形から解き明かしていく、硬派で骨太な評論連載です。

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 連載初回となる今回は、先日の『ゼビウス』鼎談記事を受けて、その世界観の魅力が設定や画面に散りばめられた、絶妙な「意味」と「無意味」から成り立っていることを解き明かしていきます。
 このコラムは先日公開された、遠藤雅伸、田尻智、杉森健ら三氏による実に生き生きとした、読んでるこっちが嬉しくなってくるような『ゼビウス』を巡る鼎談を受けて書かれている。

「ゲームの企画書」第一回:
「ゼビウス」がなければ「ポケモン」は生まれなかった!?------遠藤雅伸、田尻智、杉森建がその魅力を鼎談。ゲームの歴史を紐解く連載シリーズ「ゲームの企画書」第一回

 とはいえ、リアルタイムで『ゼビウス』の洗礼を浴びた当事者と開発者のこれ以上ないほどに豪華な鼎談に今更若輩者の自分が付け加えることなどあるだろうか?
 そもそも、ゲームというメディアは批評や評論に乏しいメディアであると言われることが多い。歴史に差があるとはいえ、映画や漫画など他の分野での批評、評論の置かれる状況と比較すれば、それは確かにそうなのだと思う。

 しかし、『ゼビウス』というゲームは広いユーザーに遊ばれると同時に、語られるゲームでもあった。ゲーム黎明期に登場したタイトルであるにも関わらず、非常に豊かな言葉によるやり取りがなされたゲームでもあったのだ。あるいは、こう言ってもいいだろう。要するに『ゼビウス』とは、その時代のあらゆるジャンルの作品と比較しても相当に「惚れてしまう」作品だったのだ。
 『ゼビウス』とはプレイヤーに「誘い」をかけるゲームだったし、当時の様々なゲームプレイヤーがその「誘い」に乗ってしまった。それはリアルタイムから若干ずれた形で『ゼビウス』を体験した自分も例外ではない。だから自分なりに『ゼビウス』について言いたいことはやっぱりある。

 このコラムではなぜ『ゼビウス』は我々を魅了するのか、なぜ我々は『ゼビウス』についてついつい思いを巡らせてしまうのか、考えてみたい。

■「隠す」ことで世界に「可能性」が生まれる

 『ゼビウス』を語る上で、僕が最も重要な要素ではないかと考えている要素はズバリ「隠しキャラ」である。

 『ゼビウス』の隠しキャラクターとしてあまりに有名な「ソル」や世界観の統一という意味ではやや異質にも見える「スペシャルフラッグ」はなぜ重要なのか?

 結論から先に言ってしまえば、何かを「隠す」ことで、ゲーム中のあらゆる背景に、もしかしたら何かが隠されているのかもしれないという「可能性」、プレイヤーの側から見れば、そこには何かがあるかもしれないという「期待」をゲーム的にデザインしたからだ。たった一つでも「隠しキャラ」が隠されて存在するのであれば、あらゆる背景には"もしかしたら?"という「可能性」が生まれる。

 このプレイヤーに「期待」をさせるという仕掛けは、現代ではスマホのゲーム等の「ガチャ」に代表される、今日においても非常に重要な要素だが、『ゼビウス』は30年前の時点で非常にシンプルに、かつゲームの世界に美しく紐づく形で「期待」のゲームデザインを施したのが素晴らしかった。
 言わば、「隠しキャラ」という要素によってプレイヤーとゲーム中の背景の間にゲーム的な形での関係性が生まれたともいえるだろう。

 その結果、『ゼビウス』以降、ゲームの背景は「探索」するものになった。

 「隠しキャラ」という要素はその後、様々なゲームに影響を与え、手を変え品を変え様々な形で採用されてきた。現在では古い要素、前時代的な仕掛けとなっているかもしれない。
 しかし、本当に重要なのは、「隠しキャラ」それ自体ではなく、「隠しキャラ」によって生まれるプレイヤーとゲームとの関係性だ。ゼビウスにおける「隠しキャラ」の画期性とは、それによって背景に可能性を与え、プレイヤーと世界の関係性をゲーム的にデザインしたことにこそある。

 今でこそ、レベルデザインの重要性は、開発者や一般ゲームユーザーにも当たり前のこととして浸透しつつあるが、そうなるはるか以前に高度かつ本質的な形でのレベルデザインを行っていた『ゼビウス』の先進性には改めて驚かされる。

■ナスカの地上絵が存在する意味

 「隠しキャラ」の存在によって『ゼビウス』をプレイするプレイヤーは否応なくゲーム中の背景へ絶えず関心を持たざるを得なくなる。そんな背景を凝視するプレイヤーの前に登場するのが、『ゼビウス』を語る上でもう一つの代表的な要素「ナスカの地上絵」である。

 このゲームにおける最も印象的な景色と言えば、この「ナスカの地上絵」だろう。このゲームの歴史上に残るあまりに印象的な景色が何故優れているのか――それは「ナスカの地上絵」にはゲーム的な機能性が無いからだ。ザッパーにもブラスターにもうんともすんとも言わないからこそ「ナスカの地上絵」は素晴らしい。
 だからこそ、ファミコンへ移植する際、この絵は容量の都合で削除の対象ともなるし、一方で削除されたからと言ってゼビウスのファミコン版が致命的に駄目なゲームになったかと言えばそんなことはないのである。

 だが、これでは先ほど述べた「隠しキャラ」についての言及とは全く逆のことを言っていることになる。
 「隠しキャラ」はゲームの背景の中にゲーム的な機能性を隠して埋め込んだからこそ素晴らしい。しかし、「ナスカの地上絵」はゲーム的な機能性がほとんど無いからこそ素晴らしい。これはどういうことなのか。

 その理由は、まさに「ナスカの地上絵」が"ゲームに奉仕しない"ことそれ自体にある。
 あっても無くてもプレイヤーには影響が無いし、戦いには関係がない。しかし、そのことによって世界の中心がプレイヤーにあるわけではないことを「ナスカの地上絵」は告げている。だが、多くのプレイヤーは「隠しキャラ」の存在によって、世界の全てに可能性を見出し始めたがゆえに、「ナスカの地上絵」にもなんらかの「意味」を読み込もうとしてしまう。だからこそ『ゼビウス』に数多くのプレイヤーがより深く、多面的にのめり込むようにもなったのではないだろうか。

 「隠しキャラ」によってプレイヤーは世界との関係性を築いた。そして「ナスカの地上絵」はプレイヤーと世界の無関係性を表現した。このあまりに見事な二重性があるからこそ、『ゼビウス』は自分と敵キャラの撃ち合いのゲームであることに留まらない、「世界」を体験するゲームとなった。

 皆さんもRPGなどで、特にゲームの本筋とは関係のない"ほこら"や離れたところにポツンと立っている民家や人工物などに妙な郷愁を掻き立てられた経験がないだろうか?
『ワンダと巨像』や『ICO』なんかは、そんなような建物が満載だからこそ、ゲームの本筋と同等にゲーム中の「世界」が印象的だったのではないだろうか。僕は『ゼビウス』の「ナスカの地上絵」を見る時に、ジャンルは全く違うが、『ワンダと巨像』の世界をとぼとぼ放浪していた時と共通の感覚を覚える。

 ゼビウスが従来のゲームの枠組みを超えて様々な分野の人に対して大きなインパクトを与えたのは、単によく出来たゲームであるということ以上に、映画、小説、漫画などといった既存メディアとは違う、ゲームというメディアでしか表現できない形で「世界」を表現していたからなのだ。

■世界を表現し体験する『器』としてのゲーム

 ここまで、自分が語ってきた「隠しキャラクター」、「ナスカの地上絵」といった要素はあくまでも『ゼビウス』の断片に過ぎない。今遊んでも艶めかしい動きをするトーロイドや、3DCG表現の先取りともいえるデザインに"倒せない"という理不尽さが合わさることでプレイヤーに深い印象を与えるバキュラなど、まだまだ語るべき要素は数多い。

 自分にとって『ゼビウス』とは、リアルタイムで体験し損ねたものの、後追いで遊ぶことで、常になんらかの再発見をさせてくれたソフトである。しばらく時間をおいて、『ゼビウス』の「世界」の一端に触れることでまた新たな発見があるのだと思う。
 『ゼビウス』をレトロゲームという枠組みで括って片付けてしまうにはあまりに勿体無い。まだ遊んだことがない人は是非とも『ゼビウス』の世界に触れてみて欲しい。

文/hamatsu

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