一周して最先端、オートマにはないMT車の“超”可能性 | ニコニコニュース

風前の灯火かと思われたMTに復権の兆し。その先に何があるのだろう? 写真はスズキ・アルト・ワークスのシフトノブ
ITmedia ビジネスオンライン

 今やクルマの変速機においてマニュアルトランスミッション(MT)は少数派である。フェラーリやポルシェ、日産GT-Rといったクルマでさえ続々と自動変速機(AT)が主流、あるいはATのみになっており、MTは風前の灯火かと思われていた。今でもそう思っている人は多いだろう。

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 しかし、ここへきてその流れが少し変わってきた。スズキは昨年末にデビューしたアルト・ワークスのCMで「いま、マニュアルに乗る」というキャッチコピーを採用した。それは当然ながら「MTにはATと違う付加価値がある」という一定の共通概念に依拠した訴求方法である。

 ネットを見回してもオートマ派とマニュアル派の議論は永遠のテーマの1つで、まさに議論百出。結論はそう簡単に出ない。だからこそ、2016年の今、新しいビジネスチャンスをそこに見出そうとしているメーカーは意外に多いのだ。トヨタは86で、ホンダはS660やNSXでと、それぞれにMTに相応しいクルマをラインアップしている。

 今回はそのMTの魅力と、新時代にふさわしいMTの進歩について考えてみたい。

●意のままに操れる

 MT派の人たちの意見の多くは「意のままに操れる」というものだ。変速のタイミングやギヤのセレクトが自由という意味だと思われる。それはそれで間違いではないと思うが、実はMTの最大の魅力はドライブトレーン全体のダイレクト感だと筆者は思っている。

 同じ場所をぐるぐる円を描いて回っているとしよう。いわゆる定常円旋回だ。速度が一定のとき、舵角と走行ラインの関係は一定で、外にはらんだり内に巻き込んだりしない。ここでアクセルを操作するとどうなるか? 踏めば外に膨らみ、離せば内に巻き込む。これが普通のクルマの普通の挙動だ。つまりクルマの進路はアクセルの操作で調整できる。その調整のダイレクト感においてMTは極めて優れている。ATが特定の局面でMT並みということはあっても、MTより優れるということは起きない。

 もう少し詳細に見てみよう。定常円旋回において、クルマの軌道を変える方法は2つある。1つはハンドルを切ることで、もう1つは上述のアクセルワークだ。「何もアクセルでやらなくてもハンドルを切れば」という意見もあるだろう。しかしラインの微調整にはアクセルの方が向いているし、緊急回避のような局面では、ハンドルとアクセルの両方を同時に使うことによって、より大きく進路を変えることができる。

 つまりアクセルによる挙動コントロールのリニアリティの理想型はMTなのだ。前述した「意のままに操れる」快感があるとしたら、この挙動変化の自在さにこそ最も意味があるのだと思う。

MTの顧客はどこにいる?

 1980年代の初頭まで、オートマは少数派だった。「オートマ」という言葉にはどこか侮蔑(ぶべつ)的意味さえはらんでいて、「運転の下手な人のためのもの」という認識があった。しかしその後10年で事情は大きく変わった。ちょうどバブル経済の時期でもあり、クルマの売れ筋はより高級車に移っていき、携帯電話の普及当初は運転中の使用が規制されていなかったので、運転中の通話がしやすいオートマ需要を後押しした。

 こうして1990年代の序盤には、もはや販売面においてはトランスミッションのAT化への流れは完全に決していた。だから、MTに対する郷愁があるのはそれ以前に免許を持っていた現在40代以上の世代ということになる。

 特に50代になると子育てが一段落する。ライフステージのとあるタイミングでは3列シートのミニバンを選択せざるを得なかった人たちが、もう一度自分の好きなクルマを選べるタイミングにさしかかっているわけだ。現在、自動車メーカーが狙っているマーケットの1つはこの世代の人たちだ。その層に訴求する手段としてMTが注目されているわけだ。

 国内で最もMTに熱心なマツダあたりだと、主要ラインアップの中で、MT搭載モデルがないのはCX-5だけである(国外ではMTモデルがある)。マツダにとってMTを揃える意味とは何なのかを聞いてみたところ、いわゆるファッションにおける「差し色」効果だと説明された。つまり、MTがどんどん売れるわけではないが、MTモデルがラインアップされていることでその車種の注目度が上がる。ファッション業界ではよくある手法で、商品を際立たせるための目立つ色を差し色としてラインアップに加える。ただし、それだけ攻めた色使いを着こなすには勇気がいるので、結局は定番の色が売れるのだ。もっとも差し色がなければ定番の色も売れない。

 マツダはかつての効率追求時代に「無駄の排除」を進めてMTをどんどん切り捨てたが、現在ではMTの販売台数のみを切り出して効率を評価するつもりはないそうだ。もちろんステークホルダーから指摘されない最低限の利益を死守することはやっているという。

 マツダの言い分を整理すれば、MTがあることでファンtoドライブなイメージが高まり、ATにも販促効果が波及する。つまり自社商品の注目度を高める戦略的位置付けにMTはあるのだ。

 具体的な車種名を挙げて比率を見てみよう。

・アテンザ:10%

・アクセラ:10%

・デミオ:7%

・CX-3:7%

・ロードスター:75%

 一番驚くのはアテンザの10%だ。Dセグメントセダンの10%がMTとは普通なかなか考え難い。しかし先に書いた40代以上のMTネイティブ層がメイン顧客になるという意味で考えると、この数字はうなづける。デミオやCX-3がそれより低くなるのはユーザー年齢の違いが大きいと思われる。1991年以降導入されたAT限定免許や、女性ユーザー比率の影響だろう。

 こうした需要動向を見てみると、MTが販促策として機能するのは向こう10年程度の間だと考えられる。それ以降、若い人への浸透はどうやって図っていくつもりなのかもマツダに聞いてみた。その答えがまたマツダらしい。「MTというのは1つの自動車文化だと思います。ですから40代以上の人たちがいかにMTを楽しんでいるかを、若い人たちに見ていただいて、興味を持ってもらうことがその文化の継承にはとても重要なことだと思うのです」。その戦略がうまくいくかどうかはまだ何とも言えないが、少なくとも向こう10年を担うためにMTにも進化が求められている。

MTの新技術

 技術的にはどんなことが起きているのだろう。低燃費を抜きに考えられない今の時代、最も重要なのは小型軽量化だろう。ここで大きいのはトランスミッションケースの小型軽量化だ。

 マツダの場合、アルミ鋳造ケースをコンピュータで応力解析して、縦横斜めのどの断面で切ってもケースの肉厚が連続変化する複雑な形状のケースを開発した。トランスミッションケースには、エンジンとミッションをしっかり締結して全体の剛性を確保する役割と、中に満たされた油を保持する外皮としての役割がある。強度の必要な部分では厚みを増やし、外皮だけあれば良い部分はできる限り薄く作る。こうした工夫により、トランスミッションケースの常識であったリブがいらなくなった。

 ギヤそのものも進化している。こちらはどのメーカーという話ではないが、ギヤの歯の表面処理精度を高める流れが加速中だ。常に擦れて力を伝えるという過酷な仕事をするギヤは、表面を滑らかに研磨することで摩耗が大幅に低減できる。一説には80%という話をエンジニアから聞いたことがある。その時どんな条件で80%低減するのかを問いただしておくべきだったが、後の祭りである。ひとまず「大幅に」低減できるという理解でいいと思う。

 それだけ摩耗しなくなると長期耐久性が大幅に向上することになる。耐久消費財の世界では長期耐久性をむやみに高めることはしない。その分サイズが削れると考えるわけだ。つまり手間とコストを掛けた表面処理によって、ギヤを薄型化できることになる。構造的に無駄が多いATと違って、MTの効率改善はそう簡単な話ではないが、こういう地道な努力の積み重ねによってわずかながら効率は上がっている。

 また、MTの問題点の解決に向けた開発も進んでいる。例えば、現在のような電制スロットルの時代になると、MTの宿命であったエンストを防止することも可能になってくる。エンジン回転が下がりすぎたとき、電制スロットルが介入して、エンジントルクを増やすということは、制御としてはもう難しいことでも何でもない。今の40〜50代がさらに歳をとったとき、そういうアシスト機能は大きな助けになるはずである。

 ATより自分で操作するMTを選ぶ層にとっても、煩わしくないアシストであればあった方が良い。それは既に我々の想像を超えたところまで進んでいるのだ。マツダはMTの自動運転化も視野に入れた研究開発を行っている。普通に聞いたら全くナンセンスな話だ。しかし、そのために出資して東京大学に社会連携講座まで立ち上げたとなると、与太話とは思えない。

 まず第一に「人は誰しもチャレンジすることが楽しい」ということだ。ゲームでもスポーツでもそうだが、あまりに一方的な展開になると人は興味を失う。簡単過ぎても難しすぎても、退屈だったり屈辱的だったりしてやる気になれない。だが、適度な歯ごたえのある攻略対象に向上心を持って臨めるとき、それは興奮の対象になる。米国の心理学者、ミハイ・チクセントミハイはこれを「フロー体験」と名付けた。筆者は日本古来の言葉で言えば「没我の境地」だと思っている。熱中し夢中になるとき、人の心と体は活性化する。それはボケを防止し、豊かな老いの時間を過ごすことを可能にする。筆者が言っているのではない。東京大学の特任准教授がそう言っているのだ。

 ヤマハがMTの自動二輪車を運転することがボケの防止に役立つという発表をしていることを基に、マツダではこれがクルマでも成立すると考えているのだという。ただし、問題なのはチャレンジするのがゲームではなくリアルの世界の運転であることだ。ミスは死亡事故につながる。

 そこで、チャレンジが万一失敗した場合に備えて、バックグラウンドで自動運転が待機するわけである。人為的なミスが事故につながりそうなとき、コンピュータがシークレットサービスのようにアシストして事故を未然に防ぐ。そんなことがどこまで実現できるかについてはまだ議論の余地があるだろうが、クルマを運転する喜びがいくつになっても味わえ、万一の場合にはミスをアシストして助けてくれる仕組みが本当にできたとしたら、人とクルマの新しい関係が生まれる可能性は確かにある。それは世界に対して日本が提唱する自動車の新しい価値になるかもしれない。

 ATのイージードライブが創造してきた価値の延長線上に完全お任せの自動運転があるとしたら、それとは全く異なる自動車の可能性がMTの自動運転の先に見えてきた。それは人が持って生まれた好奇心を大事にするということだ。面白がって難しいことにチャレンジし、そのリスクだけを最先端の自動運転が排除してくれるという全く新しい概念である。

(池田直渡)