想定外の社長就任、反骨の「二番手根性」が成長の原動力 | ニコニコニュース

嶋本正・野村総合研究所会長
プレジデントオンライン

3月に開かれた第4回「わかやま未来会議」。和歌山県出身の若手ビジネスパーソン約70人が集まる会議に登壇したのは、嶋本正・野村総合研究所会長。過去の修羅場経験を披露し、社長として6年間走り続けられた原動力について語った。

■入社動機は高邁とは言えない事情も

私の父方の家は和歌山県海南市で醤油をつくって売る商売をし、母方のほうは同じ海南市で漆器の製造・販売をしていました。私も海南市で生まれましたが、父親の仕事の関係で和歌山と大阪とを行ったり来たりしました。

その後、京都大学で情報工学を専攻し、野村総合研究所と合併する前の野村コンピュータシステムにエンジニアとして入社します。まだコンピュータ活用の黎明期です。これから本格的なコンピュータの時代が訪れると言われる中で、コンピュータをつくる側と使う側の間に立って、情報システムを構築する役割が大きくなると考えたのが入社の一つの動機です。もう一つ、卒業した76年が第一次石油ショックの後で雇用環境が悪く、「コンピュータ」という名前が付いている会社が入れてくれるならまあいいかなという、あまり高邁とは言えない事情もあります(笑)。

入社してみると野村証券の第二次総合オンラインシステムがちょうどスタートするタイミングで、エンジニアとして新しいシステムをつくって動かせるという幸運に当たりました。

十数年、エンジニアとして仕事をし、その後は産業システム事業を立ち上げる仕事に携わることになります。それが大変でした。もともと当社は金融システムと小売りを中心にした流通システムの分野は得意でしたが、それ以外の産業分野のシステム事業に手を広げていかないと会社も成長しないということではじめたのです。

新しい分野ですから、自ら率先して、提案して価格交渉もし、仕事を頂いてこなければいけません。私は技術者ですから戸惑いました。お客様のところに行っても手掛けている業務がさっぱりわからない。何を話していいかもわからないというところからのスタートです。

そうした新しい経験の中で思ったのは、独力では難しくても、コンサルタントと一緒に仕事をするとうまく進むことが多いということでした。未開地にポーンと放り出されて、もがき苦しみながら生き抜く修羅場体験は、やはり役員になってから活きてくるように思います。

もう一つ厳しかったのが、50歳を過ぎて大きなプロジェクトの責任者になったときでした。何百億円という大型のプロジェクトです。1日納期が遅れると1億円の遅延金が出る。なぜ私が責任者なのだろうと煩悶しました。社内を駆け回ってメンバーを集めようとするのですが、最初は「うちの大事な部下は出すわけにはいかない」と、どの部署も嫌がります。ただ、最終的には全社の応援を得て大変な状況も乗り越え、うまく乗り切ることができました。

■社長がやらなければならない5つの仕事

取締役になって8年、社長になってから6年の間、8カ年の長期経営ビジョンを進めてきました。それも3月末で終了します。リーマンショックの発生した2009年3月期を含め3年連続で厳しい業績となりましたが、後半の5年間でリカバリーできたという感じです。私にとって8年間の計画だったのが幸運でした。もし5年計画だったら最初3年間の落ち込みのために、後半の2年は苦し紛れの経営になったかもしれません。

社長としてやらなければいけないことを挙げると、「将来を考える」「総力を結集する」「変革」「揺るがない」「思いの共有」の5つです。実際はどれも難しい課題です。

社長になったら半分以上の時間は、今のことではなく将来のことを考えなければいけません。しかしそのための時間がなかなか取れません。驚いたのは会議が多いことです。お客様や社内との会議に投資家とのミーティングや会食、そのほか取材や講演などでも時間を取られます。そこで社内会議は必要最小限に絞りました。それから今までより早く、朝7時半に会社に来るようにし、8時半までの1時間と、12時からの2時間はアポイントを入れないようにして自分の時間を確保しました。

総力の結集も言うほど簡単ではありません。各事業本部は売り上げも利益もきちんと出していましたが、その分、お互いの壁が高かったわけです。本部長や部長はどうしても自分たちの組織中心のマインドになってしまいがちです。お互い、仲よくしろと言っても仕方ないので、お客様を中心に据え、お客様のために価値の高いサービスを提供するためには自分の組織がどうのと言っていられないことをわかってもらうようにしました。そのために、お客様ごとに社内を取りまとめる役員を置き、組織横断的な活動も仕掛けました。

変革も難しい課題でした。成功体験が強く、かつコンサルティングやシステムの会社ですから理詰めで考える左脳的な集団なので、変革を好まない体質があります。「新しいことにチャレンジしよう」と発破をかけても、「そこまでやることはないんじゃないですか」「そんな危なっかしいことはよしましょう」という雰囲気です。左脳で詰めていくと、やはり今の延長線上で物事を考えてしまいます。

ただリーマンショックの後、3年連続減収減益になったので、「このままではダメだ」「新しいことをやろう」という機運が生まれてきたのも事実で、そのチャンスをとらえて変化の必要性を説きました。

■課長クラス500人と直接対話

揺るがないというのもリーマンショックのようにどうしようもない外部環境に影響されるので、容易なことではありません。それでも環境が悪いからと諦めるのではなく、自分たちの強みをうまく活かすことを考えるようにしました。

最後に、伝えることの難しさ。社長になって一番に願うのは、経営の思いと社員の思いの一致です。全員が一丸となって事業に当たれるのが会社として最高の形です。6年間、それを目指してきましたが、もちろん簡単ではありませんでした。

自分の思いを役員や部長に伝えても、その下の社員は、「そんな話があるんですか」といった具合で、まったく伝わっていません。かといって、全社員を集めて話してみてもやはり一方通行になってしまう。そこで、社長就任の2年目から直接対話をはじめました。

15年度は課長クラス約500人を10~15人くらいに分けて、順次話していくようにしました。創立50周年を迎えるに当たって、社員に伝えたい50の思いを形にした「しまキューブ」というツールを使って、課長たちにどの項目に関心があるかを問いかけ、意見や質問を聞いたのです。

それを通じて、かなり経営の思いを社員に伝えられたのかなと思っています。

私はもともとエンジニアでスペシャリスト志向でしたから、社長になることはまったく想定していませんでした。それでも何とか責任を果たせたのは“二番手根性”が原動力になったのではないかと思っています。

自分が生まれたのは海南市ですが、和歌山県で一番大きいのは和歌山市です。それから和歌山県も大阪府と比べれば人口規模では見劣りします。大阪に住んでいるときも高石市という、隣の堺市に比べればローカルな街でした。その高石市で通っていた中学校は2校あるうちの高南中学で、一番手の高石中学校には何かと負けるわけです。野村総合研究所もが属する情報サービス産業の最大手はNTTデータだと言われています。

このようにいつも二番手を歩んできました。負けていると当然、悔しいし面白くありません。でも真正面から四つで組んでもかないません。量や力では勝てません。質とか価値で勝負するしかないのです。そういう意識は現在、社内でも共有できているのではないかと思っています。

----------

野村総合研究所会長 嶋本 正(しまもと・ただし)
1954年、和歌山県生まれ。76年、京都大学工学部卒業。同年、野村コンピュータシステム(現野村総合研究所)入社。01年、取締役情報技術本部長兼システム技術一部長。02年、執行役員情報技術本部長。04年、常務執行役員情報技術本部長。08年、専務執行役員事業部門統括。同年、取締役兼専務執行役員事業部門統括。10年社長に就任。15年会長兼社長、16年4月会長。

----------