「春画はポルノじゃない」論は欺瞞? 日本初の春画展開催ムーブメントの中で芽生える疑問 | ニコニコニュース

「春画展-shunga- 永青文庫」特設サイトより。
おたぽる

 今秋、細川家伝来の文化財を公開している永青文庫(東京都文京区)で開催予定の春画の名品120点を集めた本格的な春画展が、にわかに注目を集めている。開催の契機となったのは、2013年秋から2014年にかけてイギリスの大英博物館で開催された春画展。この催しは、3カ月間の会期中に約9万人の来場者が集うほどの盛況となった。これを受けて、直後には日本でも初の春画展が計画されていたが、多くの美術館がクレームなどを恐れて二の足を踏んでいることは度々報じられてきた。

 それを乗り越えての開催は、画期的な出来事であろう。けれども、開催を喜ぶさまざまな論者からの声には疑問がわくばかりである。それは、多くの人が春画がポルノであることを否定し、春画をタブー視してきた日本の後進性を批判する視点に立脚していることだ。開催を喜ぶ人々は、葛飾北斎や歌川国芳といった著名な浮世絵師が春画を手がけていたことを語る。そして、多くの作品に「風刺」や「反骨」の要素が含まれていること、前述の大英博物館での展示だけでなく、海外では高い評価を得ていることを論じるのだ。

 これらの論からは「春画を実用に使うオカズではない、もっと高尚なものとして扱おう」という意志を強く感じる。

 ポルノであることを否定された春画、そこにはもはや価値がない。春画が大量に生産された時代に、それを受容したのは市井の庶民たちであった。庶民たちが、ひとりで、あるいは仲間と持ち寄って作品に描かれた「風刺」や「反骨」に笑みながらも実用に供したのは否定し得ない事実であろう。そうでなければ、現代にまで残る多くの作品が生まれるはずもなかった。

 それに対して、ときの幕府が禁圧を加えた理由は明白である。性をあからさまにする行為は、誰もが淫猥な性欲を持っているという事実をさらけだし、権威をばかげた意味のないものだと気づかせてしまうからである。

 有り体にいえば、世のしがらみから逃れ、一時の笑いと興奮を誘い精液や愛液にまみれて捨てられるポルノだったからこそ、春画は庶民の支持を得たのである(実際に江戸の人がどう"実用"していたかは知らぬ)。

 現代の日本では、春画の系譜をひくのかどうかはわからないが、多くのエロマンガが大衆に受容される文化として花開いている。それらの作品の中には、さまざまな形で批評の材料に使われるものも出てきている。けれども、普段、実用的に使っているエロマンガが、描かれている「風刺」や「反骨」の精神を称賛され、内外を問わず高尚な芸術かのごとく扱われるようになったとして、欲情することはできるだろうか。

 いつの時代でも民衆の支持を受ける文化というのは、権力者や世の「良識」なるものを当たり前のように信じ込んでいる人々が、顔をしかめるような下劣で淫猥な要素を含んだもの。すなわちクズだからこそ価値を持つはずだ。だからこそ、なんら性欲を喚起させない言葉に包まれていく春画は価値を失っていくのである。

 けれども、春画だけがそうなのではない。クールジャパンが国家の掲げる政策となり、それに呼応するように、これまで読み捨てられるような作品ゆえに民衆の支持を得てきたはずの制作者たちは、恥もなく権威の側へと転向している。大学でマンガやアニメが研究され、国家によるさまざまな賞に喜びの声が上がる......クズの側にいることを忘れた文化は、民衆の支持を得ることはできないはずだ。

――ここまで書いてきたわけだが、筆者も春画というものは、ほとんど見たことがない。今回展示されるのは120点に及ぶ作品。ともすれば、いくら高尚な言葉で彩られたとしても、時代を超えて見る者の劣情を誘い、その場でズボンを脱ぎスカートをまくり上げてしまいかねない衝撃的なエロに満ちた作品があるかもしれない。百聞は一見にしかず、まずは出かけてみることにしよう。
(文/昼間 たかし)