確かに、がんは部位ごとに、それぞれの治療法の治癒率から副作用の発生率まで、さまざまな数値が公表されています。それらのデータは、確かに透明性を担保してくれます。それをCさんは「(確率論で割り切れる)レールに乗ってしまう」と表現してくれたのでしょう。
その気持ちを推しはかって言えば、「データに裏打ちされた次元とは別の、偶発的な出来事に恵まれる可能性のあるところに居続けたい」。そのような気持ちが、Cさんの心の奥底にあったのかもしれません。けれども私はその痛切な言葉を耳にして、「そういう心理になることもあるのだ」と興味深く思いました。医師として、そのような患者さんの心理に触れられたのは貴重な経験です。
現代の医療の現場では「EBM」(Evidence Based Medicine)という言葉が盛んに言われます。「臨床結果に基づいた根拠のある医療」ということです。一定量以上の客観的なデータや、学会誌や医学雑誌に発表されるような根拠を重視する姿勢のことです。
私たち医師は、EBMを第一に考えるように教えられ、自身を科学的たらんとして訓練し続けています。
患者さんが、データの裏付けに乏しい代替療法を望まれることはよくあります。特に標準治療で策が尽きた場合、「代替医療にチャレンジしたい」という相談にも、私たちは向き合わねばなりません。
『がんが自然に治る生き方』にあったような瞑想などには、賛同できる部分もあります。私の勤める病院でも、レイキやヨガなどの体験セミナーを開催することもあります。ただし、それはがんの完治を目指す手段としてではなく、あくまでリラックスや心身の癒しの手段としてです。それを取り入れたからといって、明らかな健康被害や金銭的な負荷を負わせるものではないから、安心しておすすめしている部分もあります。
困るのは、少なからぬ額の出費を伴う代替療法のケースです。
「高額な金銭と引き換えに、その患者さんはいったい何を得たいと願っているのか」
本質的なことを言うと、医師はその部分について徹底的に考えるべきなのです。
つまり医師というのは、科学的、医療的な面に判断していく頭脳的な役割と、患者さんの心理や、患者さんが紡ぎ出す物語に誠実に接していくメンタルケアの役割と、一人で二役を務めることが理想です。
たとえば、標準治療を拒んでまでも代替医療を希望する患者さんや、厳しすぎる食事療法に傾倒しがちな患者さんには、医師が科学的な無効性を訴えるだけでは、足りないのです。
患者さんとの対話の際には、次のような姿勢や話法も必要になってきます。
「医師としては、その食事療法は絶対にすすめません。けれども、あなたの生き方にどうしてもその厳格な食事療法が支えになるのなら、私は止めません」
しかし最もデリケートであるこのようなコミュニケーションの部分に関しては、少なくとも患者さんからみて不十分なところも多く存在しているようにも見受けられます。
極端な例を挙げると、「余命はあと数カ月、治療の手立てはなし」というような余命宣告を突然行い、ホスピスなどへの終末医療への転換を提案して、治療の終了を告げる。非常に残念なことではありますが、そのような医師がいることも事実です。よその医療機関で、そのような宣告された患者さんが、私たちの病院に泣いて駆け込んでくることもあります。
医師とは、揺るぎない事実を冷徹に見極めながら、それを伝えるときには、別の角度からも考える。そのような複眼的な思考が必要なのです。
実際のところ私たち医師は、毎日のように患者さんやご家族に厳しい言葉を伝えざるを得ません。病名の告知、短い予後、予想される治療の副作用、だんだんと体力が落ちていく経過の予告など、数え上げればきりがありません。
ある医師はそれらの言葉をもって「呪い」と表現していました。確かに、むきだしの言葉を患者さんに突き付けることは、患者さんの気持ちを下げこそすれ、前向きにする要素は一つとしてないでしょう。
患者さんが「代替療法を受けたい」という希望を口にしたとき、それを頭ごなしに否定してはいないか。それもある意味「呪い」で、患者さんがその治療法と前向きに生きていこうという気持ちまで萎えさせてはいないか。
医師は本来、もっとその部分に敏感になるべきなのです。
「もう先は長くないので、あとは自分の時間を大切に過ごして下さい」という類の言葉をかけられて、いったいどれほどの人が「自分の時間を大切に」過ごせるでしょうか。
「死に向かって、前向きに生きる」というのは並大抵のことではないはずです。私たち医師は、患者さんとの「無配慮」な向き合い方について、反省が必要ではないでしょうか。
もちろん、私自身が理想的なコミュニケーションを完全に実践しているというわけでも、明確な答えが見えているというわけでもありません。ですが本書は、科学者として、同時に心を持った一人の人間として「こういった患者さんたちと向き合う覚悟がまずは大切である」と反面的に教えてくれている面もあります。
がんサロンなどで出会う患者さんは、前向きな方も本当に多いのですが、「死に向かって前向き」というよりも、あくまでも生に向かって前向きであり、「自分の人生を生き抜く」という決意を感じることが多いものです。
このような患者さんたちに接していると、緩和ケアで教えられる「死を見つめ、受け入れることが大切」といった表現が、いささか綺麗事のようにも見えてきます。
ただ、そのような方々も何もせずに突然そういった心境になるわけではありません。皆さん、多くの葛藤や苦しみを乗り越えた上で、そういった生き方を選んだことでしょう。誰しもが簡単に乗り越えられるような道程ではないはずです。
特に本書で繰り返し目にする「治療法は自分で決める」「より前向きに生きる」「『どうしても生きたい理由』を持つ」といったメッセージには、私も同意できますし、多くの方の共感を呼ぶはずです。
医療の究極の目的についても、本書は考えさせてくれます。
がんという病気は一直線に悪化の一途を辿るものではありません。進行のペースは、千差万別です。
中には、明らかに肉眼で見えるのに、数カ月、ときには年単位で、同じ状態を維持し続けるケースさえあります。
そのような消えもせず、増殖もしないがんを「スロープレグレッシブ」(遅行性)と言い表します。
その場合は、体に多大な負荷をかけてまで、抗がん剤などでがんを一気に小さくしようとするだけではなく、「共存する」「一緒に生きていく」という考え方を重視して、慎重に観察を続けながら柔軟性に満ちた治療方針に切り替えることもあります。進行がん=抗がん剤投与と考えるのはそれはそれで間違いだと思います。
私は患者さんに必ず、「あなたはどのように生きていきたいですか」ということを尋ねています。医療の目的は闇雲に命を延ばすことだけに限りません。確かに命の長さは明確に計測ができます。しかし本来、長く生きることは「幸せ」を測る指標の一つに過ぎないはずです。
医療の本当の目的は「人生を幸せに生き抜いてもらう手助けをすること」と私はとらえています。
実際のところ「幸せ」とはそれぞれの人によって違うものであるし、量的には測ることができないものであるはずです。「がんを少しでも小さくする」「少しでも長く生きる」といった考え方から解放され、少しでも心豊かな瞬間が増えるとすれば、それも「幸せ」の一つの形ではないでしょうか。
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西 智弘(にし・ともひろ)----------