【原爆投下3ヵ月後】長崎の爆心地を撮影した驚愕のカラー映像 | ニコニコニュース


どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は原爆投下70周年のタイミングということもあり、長崎に原爆が投下された3ヵ月後の様子を捉えた映像を取り上げたいと思います。

「Atomic Bomb Physical Damage: Nagasaki, 11/05/1945(1945年11月5日、長崎の原爆による物理的被害=著者訳) 」とタイトル付けされた「US National Archives(アメリカ国立公文書記録管理局)」が投稿した無音、無編集の状態のカラー映像(著作権フリー)です。早速見ていきましょう。

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MC GOVERN(マクガバン)の名前が入ったカチンコからスタートします。このシリーズでは頻繁に使用している、ダグラス・マクガバン大佐率いる米軍映画撮影隊の映像です。日付は入っていませんが、「NAGASAKI」と地名は記入されています。

三輪車に乗った子供が映し出されます。よく見ると、右後輪の車輪がなくなっているようです。一生懸命乗りこなそうとしている姿が健気でもあります。背景に目を向けると、右後ろには左端部分が壊滅状態になっている建物が見えます。

建物を拡大したものがこちらです。資料によると、「城山国民学校(現・城山小学校)」の校舎のようです。爆心地の西、わずか500mにあり、運動場にいた17名の女子生徒のうち12名が即死、生き延びた生徒も数日内に亡くなったそうです。

長崎に原爆が投下されたのは、1945年(昭和20年)8月9日。爆発時間は午前11時2分と記録されています。地図上部(北部)の赤い点が爆心地とされ、現在は「原爆公園(原爆落下中心地公園)」となっています。その原爆公園のすぐ左(西)にある「城山小」が、上の「城山国民学校」の場所です。

長崎の中心部である長崎県庁は、地図最下部(南部)にある長崎駅より南に600mほどの所にあるので、爆心地は県庁のだいたい3kmほど北にあたります。当日、長崎は雲に覆われており、たまたま雲の切れ間があったのが、三菱の兵器工場などがある、この爆心地付近の上空だったのだそうです。なんという運命でしょう。

リヤカーを引く男性の姿があります。爆心地周辺のようで、形が残る建物がほとんど見当たりません。

杖を付く着物姿の男性が映ります。瓦礫の上を打ちひしがれたように歩き回っています。しかし、何度かリテイク(撮り直し)されているので、このシリーズでは何度も見られた米軍映画撮影隊の演出が入っているようです。

所々に焦げてしまった樹木が立っています。緑あふれる場所だったのでしょう。

白い壁の残骸のようなものが見えますが、「浦上刑務支所(現・平和記念公園の場所)」の塀のようです。

その塀の背後に見えるのは……、浦上のシンボルとして親しまれていた「浦上天主堂」です(再建されて現存)。爆心地の北東500mほどの場所です。1895年(明治28年)に建築が着手され、23mあった正面の塔ドームは1925年(1925年)に完成。そのドームは、爆風およびその後の火災により、およそ35m転げ落ちてしまったのだそうです。

広島の「原爆ドーム」のように、原爆被害の象徴としてこのままに保存することが叫ばれ、以後しばらくの間は保存されていましたが、「江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地」である同場所に「浦上天主堂」を再建したい教会側の意向もあり、1958年(昭和33年)に取り壊されることに。現在、一部が平和公園内に復元されています。

ここで入るカチンコから、日付が表示されます。「Nov.5 1945」、1945年(昭和20年)11月5日。この表示に間違いがなければ、原爆投下から3ヵ月(正確には3ヵ月未満)の映像となります。

爆心地周辺でしょうか、リヤカーを引く男性と荷物を担ぐ男性らがすれ違っていきます。折れた煙突のようなもの見えます。

瓦礫のなかを行く、鍬を持った男性らの姿があります。

根元からへし折れている煙突。爆風の凄まじさが伝わってきます。

こちらはタンクのようです。

カチンコの日付は「Nov.5 1945」、1945年(昭和20年)11月5日のままです。

遠くの方から8人連れ(赤ちゃん2人を含む)が歩いてやってきます。右端に映っているのは、大人の方のように見えますが、その他は子供たちです。お姉さんとおかっぱの女の子は赤ちゃんを負ぶっています。

カメラの存在にきょとんとする女の子。全編を通して、このあたりが一番鮮明に映っています。撮影隊からお姉さんに何かが手渡されます。食べ物でしょうか?

すると、ここでもリテイク。今度は「やった」というようなポーズ付き。その後、どのようにこの場面は使われたのでしょうか。

場面は変わって、冒頭に出た「城山国民学校(現・城山小学校)」の校舎が映ります。その前を頭巾を被った人が歩いていきます。こちらの道路では、木が倒れかかったままになっていて、通行に一苦労のようです。

カチンコの日付は「10 Nov. 1945」、1945年(昭和20年)11月10日と見えます。先ほどから5日後の映像のようです。

ここからは、滑らかに移動しながらの映像となります。無音なのではっきり分かりませんが、鉄道から撮影しているのでしょうか。破壊された巨大な建造物は、三菱の長崎製鋼所のようです。

製鋼所の目の前には駅がありました。駅名標に「うらかみ」とあります。長崎本線で起点・長崎駅の次の駅(上の地図参照)である「浦上駅」です。爆心地から890mほど。

長崎本線は8月9日の原爆投下により大橋鉄橋から長崎駅の間は不通となりましたが、驚くことに翌10日には復旧工事が行われ、8月11日の夜間より運転が再開していたのだそうです。

参考文献に載っている1945年10月中旬撮影の「うらかみ駅」の画像では、駅名標は右から左に「みからう」と表示されていたのですが、その半月の間に変えられたのでしょうか。さらに以前はなかったアルファベット表示もあります。

カメラは、くまなく製鋼所を撮影していきます。

平行して走る線路は、荒れたままになっています。

道行く荷馬車の姿があり、裸馬もいます。やがて、鉄道と思われし乗り物は加速していきます。

カチンコの日付は「6 Nov. 1945」、1945年(昭和20年)11月6日と見えます。

ここからは、詳細は分かりませんが、木材を加工し運んでいく姿。さらにそれを見学している人々が映し出され、映像は終了します。復興は始まっているのです、という意図なのでしょうか。

人類史上最大級の大虐殺というべき広島、長崎への原爆投下(その他の都市への大空襲を含め)から70年が経ちました。戦争を知らない世代の我々が行うべきことは、ひたすらそれに関して興味を持ち続けることなんではないかと思う2015年の8月でした。引き続き、昭和の歴史を紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

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※参考文献


「仁科記念財団編纂 原子爆弾 広島・長崎の写真と記録」(光風社書店1973)
「長崎 よみがえる原爆写真」(NHK出版班1985)
「原爆遺構 長崎の記憶」(海島社1993)
「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(平凡社2009)
「GHQが封印した幻の潜入ルポ ナガサキ昭和20年夏」(毎日新聞社2007)
「長崎原爆の記録」(あゆみ出版1984)

【動画】「Atomic Bomb Physical Damage: Nagasaki, 11/05/1945 」