企業経営に正解はない。だが、経営者は経営努力で「解」を導き出すことはできる。
大阪府大東市に本社を置く山田製作所の2代目社長、山田茂(52歳)は、強い意志と行動力で自社にとっての「解」を引き出した経営者のひとりだ。
その解とは、3S活動である。多くのメーカーがすでに取り入れている3Sは、整理・整頓・清掃を徹底する改善活動だ。なぜ、いまさら3Sで? と思うだろうが、その徹底ぶりはまともではない。普通の意味の整理・整頓・清掃ではないのだ。
同社は、1999年から3Sを導入し、「山田式3S」とでも呼びたいほどの活動手法に高めた。その結果が、広さ150坪の工場に現れており、多くの企業が毎日のように見学に訪れている。その数は、年間で200社、これまで累計で延べ3100社も訪れており、海外企業も少なくない。
山田製作所は下請けで、産業用生産機械の部品や医薬を作る装置のタンクなどの製缶や板金加工を手がけており、これといって特別な物を作っているわけではない。だが、その設計力、正確な納期と品質管理、高い生産性による低コストは、取引先から評価を得ている。また、進捗状況を画像などで顧客に見えるようにするなど、サービス面も充実している。
何より、工場の整然とした美しさ、社員の無駄のない動きなど、同社を見学すれば、仕事を頼みたくなると言われている。「工場が最高のセールスマン」と山田が言うのもうなずける。
「私たちは特別なことはしていません。当たり前のことに、ただ本気で取り組んでいるだけです。3S自体は難しくも何ともないが、多くの会社では持続しません。ルールを決めても経営者自身が例外を作って破ってしまい、なし崩しになるからです」
山田は、弟の雅之(専務)と二人三脚で、誰よりも熱心に、誰よりも執念深く、3Sを実践してきた。創業者で会長の父・英二がどれほど激しく反対しても、社員が抵抗を続けても、あきらめずに取り組んできた。
その結果、社員と会社は変わった。会社に対して社員が誇りを持ち、取引先からの信頼が高まり、新規の顧客が増え、売上と利益が拡大した。活動から新事業も生まれた。山田は「解」を見出したのである。
山田式3Sとは何か。細部までは説明することはできないが、その概略をまとめよう。
まず、3Sそのものの目的や定義が違う。
3Sの目的は「安全な職場・快適な職場・効率的な職場をつくること」。そして、「守るべきことを決めて、決めたことを守る」ことを徹底して、企業文化に高めている。
「整理」とは、要・不要に分けることだが、同社では4つに区分する。「要るもの(生品)」は4時間以内に必要なもの。「急がないもの(休品)」は5日以内に必要なもの。「当分要らないもの(長休品)」は6カ月以内に必要なもの。「要らないもの(死品)」は6カ月以上使用しなかったもの。死品と判断されれば、どんなに高価な材料も直ちに廃棄する。
これは、在庫の材料や備品に限らない。例えば、材料などが予定より早く入荷したら「急がないものを早く頼むな」となり、納期予定より早く作ったら「急がないものを早く作るな」と、自然にジャストインタイムに向かう。
山田は「3Sで一番難しいのは整理です。例えば、10万円する鋼材が6カ月以上置いてあっても、『もったいないから、あと半年様子見るか』と経営者自らルールを破ってしまう。もったいなくても捨てろと言わないといけません」と言う。
「整頓」とは「いつでも誰もが、要るものをすぐ(60秒以内)に取り出せるように並べておくこと」である。そのために、以下のような“5頓”を徹底する。それは、定位置、定量、定方向、表示、標識だ。
工場内にあるすべての工具、文具、消耗品、清掃道具などは5頓によって整頓されている。例えば、共有工具を整頓しておくボードには工具が並べられているだけでなく、同じ位置と方向に戻すように輪郭をなぞった姿絵がある。工具には名前を表示し、戻す場所には標識がある。工具を使っているときは、使用者の名札をその場所に貼っておく。
「5頓にすると、人は自然に片付けたくなる。100人が100人とも守れるルールが必要なのだとやりながら気づきました。しかし、完全な整頓ができている場所はまだ数えるほどです」と山田は語る。
「清掃」にも5段階がある。ゴミなし、チリなし、ホコリなし、汚れなし、そして最上がピカピカである。同社のレベルは現在、「汚れなし」で、毎朝8時から山田を含めて全社員で清掃を始める。重い機械以外の工具箱、ロッカー、什器などすべてキャスターがついており、それらを移動させながら隅々まで掃き、床や壁などを雑巾で拭く。工場内は21エリアに分けられ、3チームがそれぞれ1エリアずつ毎日交替で清掃する。トイレも素手で磨き上げる。
どんなに忙しくてもこの清掃を欠かさず、ずっと続けてきた。仕事と3S活動は同格なので、何の遠慮もない。毎週金曜日か出勤土曜日には1時間かけて3Sの改善活動を行う。この時間も仕事でつぶしたことはない。
なぜ、山田は3Sに取り組み始めたのか。
父・英二が創業したのが1959年。以来、必死に働き、プレス機を1台ずつ増やしていった。山田が入社した94年には社員は4人ほどだったが、利益も出て、98年には9人に増え、ハワイへ社員旅行に行ったほどだ。
山田は有頂天で「山田製作所は永遠に栄えるぞ~」と乾杯した。だが、翌年に状況が一変。受注の大半を占めていたリチウム電池部品に関わる仕事が市況の悪化で激減。月商が95%も減り、大赤字に転落した。当時、山田は専務、雅之は常務だった。
焦った山田は新規顧客の開拓に走るが、全く仕事が取れなかった。
「初めての訪問先で、こう言われたんです。『機械は持ってないわ、技術は平凡やわ、値段は安ないわ。ところで、あんたんとこの特徴って何やねん?』」
2軒目も3軒目も同じだった。強みも特徴もないと言われて、くやしくて拳を握りしめたが、反論ひとつできなかった。
そんなとき、あるセミナーに弟と一緒に顔を出して、3Sを知った。「必死にこれをやったら、変わるかもしれない」と直感した。
当時の工場は長年の油と鉄くずが積み重なり、床がコンクリートか土かわからないほど。職人たちは平気で床に吸い殻を捨てたり、痰を吐いていた。
99年2月、山田は朝礼で「今日から徹底した整理、整頓、清掃をしたい。毎朝、8時から30分間やるから手伝ってくれ」
だが、社員は無反応。怒鳴り声を上げたのは当時社長の英二だった。
「お前はアホか! その30分、カネに直したらなんぼになる思てるねん!」
それでも、山田は弟と一緒に強行した。
まず、整理を始め、死品を洗い出し、不要な材料を処分した。父は「もったいないことすな!」と怒り、口論を繰り返した。あるとき、古いプレス機を廃棄しようとすると、父が激怒して、「目の前から消え失せろ!」と山田を怒鳴りつけた。
だが、山田はめげない。次に整頓に着手、「床に工具を置かず、箱に入れてくれ」と社員にお願いしたが、何度言っても直らない。あるベテラン職人がキレて、山田に文句を言った。小さい頃から知っている親戚のような社員にもわかってもらえず、情けなかった。
そして、いよいよ床の清掃だ。デッキブラシで油と鉄くずを取り除き、一面に緑のペンキを塗った。汚れた機械も洗剤とたわしで磨き、ペンキを塗った。壁や柱もきれいにした。
山田はうれしくて、手伝ってくれたみんなと床に寝っ転がった。すると、いやでも天井が目に飛び込む。錆びて真っ赤になっていた。天井も何とかしたいが、仕事を止めなければできないと山田が悩む中、父が「仕事を2週間止めよう。いまの仕事をがんばってこなして、次の仕事を待ってもらえばいい」と言った。
山田は驚いた。父が2人の思いを受け入れたのだ。こうして天井にもペンキを塗り、「工場の丸洗い」が完了した。そのとき、あるベテランの社員が「ここまでやって会社がつぶれたら、世間の笑いもんやな~」と言うと、父が「いや、ここまでやったんや。つぶれても本望や」と応えた。山田はあふれる涙を止められなかった。
こうして、社員の意識は変わり始めた。新人も増え、職場は活性化した。その過程で、業務の効率化を図る工程管理ボードが生まれた。進捗状況や納期などを記入するホワイトボードだ。他にも3Sの過程でいろいろな工夫が行われた。
こうしたノウハウを新事業に活かそうと、「ワイデクル」というプロジェクトが立ち上がり、デザイン会社と提携して管理ボードや整頓グッズ、管理ノートなどを開発、販売も始まった。
3Sという誰もが取り組める活動から、山田兄弟は大きな変化を生み出したのである。
(文中敬称略)
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株式会社山田製作所----------