軍師として有名な、黒田官兵衛(孝高)。出家後の名前は、如水といいます。しかし、「実は、戦国時代の日本に軍師はいなかった」というと、驚く人も多いのではないでしょうか。
江戸時代に書かれた軍記物や、軍学者と称する人たちが残した記録、さらには講談や芝居などで取り上げられている話は、ある程度“盛られた”ものであると考えたほうがいいでしょう。
また、江戸中期までに、各大名家では自分の先祖の歴史を残すことが流行しました。当然、その中で描かれている人物が美化されてしまうという事情は理解できます。
「○○家のご先祖さま、思ったほど領地をもらえていないよね? 大したことなかったんじゃないの?」
「いやいや、本当はもっと大きな領地をもらってもおかしくない手柄があったんだけど、ある理由からもらえなかったんだよ」
「え? そのある理由って何? 気になる~!」
「しょうがないなぁ、実は……」
中には、こんな調子で、やや大げさに語られている話もあるわけです。
さて、冒頭の「軍師はいなかった」という話に戻ります。軍師というと、軍事上の参謀というイメージを持つ人が多いと思います。実は、一級史料(当時の信頼すべき文書)の中に「軍師」という表現は見当たらず、「軍配者」という言葉が出てきます。
軍配者とは、兵の配置や分担などを指図した役割であるため、要は参謀ではないかとも考えられます。しかし、実はそういった指図は陰陽道や占いで吉凶を判じた結果、決められていました。
つまり、軍配者は従軍占い師のようなものだったのです。また、1人ではなく複数いて、いろいろな合戦の絵巻物の中に、五芒星の縫い物や染め物の白い衣服を着た集団として描かれています。長篠の戦いを描いた「長篠合戦図屏風」にも、そういった集団が見られます。
もちろん、「いや、軍配者と軍師は違う。軍師は確実に存在した」と言う学者もいます。
江戸時代、儒学と共に中国のさまざまな古典が日本に伝来し、一般庶民や下級武士にまで教育が広まりました。『史記』『三国志演義』『水滸伝』などが読まれるようになったため、張良や諸葛孔明などの軍師が、日本の戦国時代の武将に重ねられたような気がします。
官兵衛に関する史料としては、主に以下のようなものが挙げられます。
宣教師のルイス・フロイスによる『日本史』および手紙
『川角太閤記』
『名将言行録』
『黒田家譜』
『常山紀談』
『三河後風土記』
『黒田如水傳』
小説やドラマに出てくる官兵衛は、ほとんどがこれらの史料によってかたちづくられています。
●つくられた軍師のイメージ
しかし、ルイスの史料以外は一級史料ではありません。『川角太閤記』は江戸前期の記述であり、『黒田家譜』は1671~81年に書かれたもので、官兵衛が活躍していた時代の約100年後のものです。『常山紀談』も江戸中期のもので、『名将言行録』は幕末の記述です。『黒田如水傳』に至っては、1916年に官僚で政治家の金子堅太郎が著したものです。
「豊臣秀吉に備中高松城の水攻めを提案した」「中国大返しを企画した」という有名な話は『黒田家譜』に書かれていますが、それ以前の史料では確認できません。
「秀吉が官兵衛の才能を怖れたため、官兵衛はわずかな領地しかもらえなかった」「関ヶ原の戦いの時、官兵衛は九州で天下を取ろうと企てていた」などの話は、『名将言行録』以前の記録には出てきません。
「荒木村重を説得するために有岡城に出かけていって捕らえられた」という有名な話は、『黒田家譜』には記されていますが、「その時の牢での生活が原因で、体が不自由になった」という逸話は、『黒田如水傳』にしか見られません。
最近、秀吉が官兵衛の叔父である小寺休夢に宛てて送った手紙が発見され、官兵衛が有岡城の本丸にいたこと、牢暮らしどころか、それなりの待遇を受けていたことがわかりました。
これはなにも「官兵衛に武将としての功績がなかった」という話ではありません。「秀吉に天下を取らせた軍師」というイメージがつくられすぎ、本当の功績がすっかり埋もれてしまったのです。
官兵衛は、毛利氏と織田氏の接触点である播州で、小豪族の多くを織田側に寝返らせるという交渉に成功しました。また、宇喜多直家という大物大名を秀吉側の味方としたのも官兵衛です。
前述した村重の説得には失敗したものの、官兵衛は囚われの身になっても裏切らなかったということで、秀吉からの信頼を得ます。実際、秀吉が官兵衛に宛てた手紙には「お前は、弟の小一郎と同じように信頼している」という記述があり、秀吉が官兵衛を怖れたり疎んじたりしていたという記録は、一級史料には出てきません。
官兵衛に関する記述の多くは、江戸時代に書かれています。当時は、徳川の天下です。そんな時に、「官兵衛が秀吉から信頼されていた」などという話を残すのは危険です。「実は嫌われていた」「実は疎んじられていた」としておいたほうが、無難だったのかもしれません。
官兵衛の手腕が発揮されたのは、四国平定の時です。交渉と攻城を巧みに使い分け、毛利氏と協調して四国平定を進めた官兵衛は、超一流の外交術を持っていたとしかいいようがありません。
また、秀吉が関東を平定する際、北条氏を説得し、小田原城を無血開城に持ち込んだ手腕は、もっと高く評価されるべきでしょう。
●戦国ネゴシエーターだった官兵衛
近年、官兵衛の「武」に関する手柄の記録も発見されました。2013年に見つかった文書で、賤ヶ岳の戦いにも官兵衛が従軍していて、自ら兵を率いて戦っていたことがわかったのです。
虚像とは違う、優れた武将であった官兵衛の実像がわかりつつあります。
官兵衛は軍師ではなく、優秀な「戦国ネゴシエーター(交渉人)」だったというほうが、日本の戦国時代の実情に合っていたと思います。軍師として描かれてしまった原因のひとつは、『三河後風土記』に記された二代将軍徳川秀忠の「如水は今世の張良なるべし」という言葉の影響だと思います。
しかし、秀忠が張良と官兵衛を重ねたのは、軍師としてではなく、「新たに領地をあげよう」という提案を断って引退した、潔さにあったのではないでしょうか。
前述のルイスは、官兵衛の言葉を次のように記しています。
「私の権力、武勲、領地、戦で得た数々の功績、すべて水の泡となった。よって如水と名乗って隠居する」
人を陥れる陰謀や野望を秘めた軍師というより、誠心誠意、時には相手の利も考えて交渉を進め、秀吉の天下統一を助けた人物。それが、官兵衛の実像に近いような気がしてなりません。
(文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭)