■「悪党芭蕉」(嵐山光三郎著)
「文人悪食」で数多の文士の私生活を食事から暴き出した著者が、芭蕉に後世つけられた「俳聖」などのいわば虚飾を剥ぎ取り、新たな人物像を提示する。大胆不敵な書だ。
芭蕉批判「芭蕉をけなすのは覚悟がいる」としつつ、著者は芭蕉愛好者の反発を承知で斬り込む。挑発的だ。芭蕉が衆道を好むことを正面から語り、関わりある句を示す。日本橋から深川への転居も、世俗からの隠遁といった美化ではなく、自分の妾と甥の不義密通を隠すためであったと抉る。
句の批評も辛口が目立つ。名句は認めるが駄句と思えば切り捨てる。例えば辞世の句とされる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。著者は「芭蕉の目に立ち戻って考えると、この吟は仕損じである。」と断じてしまう。しかも、高名な国文学者が「この句は芭蕉晩年の理想である軽みが高度に具体化されている...芭蕉が生涯をかけた俳諧の心はこの枯野の心象風景に収斂される」とまで絶賛していることを紹介した上での批判である。確信犯としか言いようがない。
リアリズムに徹する著者は、蕉門の句集や文書を幅広く調べ、研究書の類も相当に渉猟している。そうした具体の調査で事実関係を丹念に示し、必要があれば推論を行う。これと並行して句を鑑賞するのだから本書は誠に忙しい。だが、そうした事実の積み重ねが芭蕉の真の姿を浮かび上がらせる。
「古池や蛙飛び込む水の音」の解釈に際しては、著者は蛙の図鑑を携えて池に出かける。「春の一日を清澄庭園ですごし、蛙が飛び込む音を聴こうとしたが成功しなかった」と文芸鑑賞にリアリズムを持ち込む。
芭蕉の弟子の離反や諍いを列挙し、芭蕉自身が綱吉の生類憐みの令に迎合していることを指摘するなどして芭蕉の興行師ぶりを示すところも、いわばリアリズムだろう。
タブーなき議論そのリアリズムを、著者は文芸論に転化させていく。弟子に犯罪者が幾人も出ていることを指摘しつつ、著者はこう論じる。「芭蕉という存在が、人を、俳諧の魔界へ誘い込み、歌仙という文芸遊戯が、人を犯罪的異界へひきずりこむ毒素を持っているのだろう。」悪事や毒を指摘して逆説的に芭蕉を賞揚するところ、泉鏡花文学賞受賞作の貫録というべきか。
文芸や芸能とは無縁の評者だが、芸に一滴の毒がありうることは理解できる。綺麗ごとや建前ばかりが横行し、芸人の些末な悪行を徹底糾弾する先に、新たな芸事の開花がありうるか。蕉門の「悪党」ぶりを読み進めていると、法で処断されない程度の行いが社会的制裁を受けるのは、政治家や官僚など公的な立場の者だけで十分ではないかとさえ思えてくる。
俳聖を一面では貶める禁忌を冒した本書だが、それが成るには自由な批評精神と確かな鑑賞眼が必要と思う。いわば力業だ。思えば、タブーなき議論はどの分野でも度胸と力量なくして成しえまい。その点、自己を省みて忸怩たる思いを抱かされる。嵐山光三郎、おそるべし。<J-CASTトレンド>
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