中国メディア・新華網は17日、日本が中国の言うことを聞かない背景には日本の「小中華思想」があるとする評論記事を掲載した。
記事は古代から近代に至るまでの歴史を振り返る形で、日本の「小中華思想」について紹介。まず古代において、日本は一度中国を頂点とする冊封体制の中に入ったものの、西暦607年には聖徳太子が遣隋使の小野妹子を介して隋の皇帝・煬帝に対し「日出ずる処の天子が日落ちる処の天子に・・・」とする書簡を送り、翌608年にも日本側が「東の天皇が西の皇帝に敬白す」として日本と中国が対等であることを示す文書を送ったと解説。「中国に対する自己卑下意識を、日本独自の考え方に変えたのは聖徳太子だった」と論じた。
それ以後、日本は非常に自覚的に中国との対等な関係を保つことに注力し、中国に対して決して屈服しない心理を持つに至ったと説明。日本人は遣唐使を派遣して中国の文化を学ぶ一方で、決して中国に対して自らを「臣」とは名乗らなかったとした。さらに、東アジアの冊封体制における「中華思想」の影響を受け、早い時期から日本にも「小中華思想」が出現、自らを「中国」として日本列島上でまだ統治が実現できていない部族を「夷」と称する考え方が生まれたと解説した。
さらに、中国が異民族による支配を受けると、日本人は朝鮮同様「中華はすでに滅んだ」と認識するようになり、自らこそが中華文化の正統な継承者であるとの認識を持つようになったと指摘。とくに清朝成立以降には、日本人が清朝人を「豚尾」、「辮髪坊主」を嘲笑うようになり、一部の知識人からは「中国」、「中華」という呼び名に対する疑問の声まであがったとした。そして、1871年に締結された日清修好条規では「日本代表団は清朝政府が『中国』と名乗ることに同意しなかった」と紹介した。
記事は、清朝末期に中国国内が弱体化すると、日本国内では中国に代わって日本が盟主となる新秩序を構築しようとの動きが出てくるとし、1874年に台湾を侵攻、79年には琉球を呑み込み、94年には日清戦争を起こし、翌95年の下関条約によって中国を中心とする東アジアの国際秩序を完全に崩壊させたと論じた。そして、これ以後日本では中国に対する尊称が「支那」という蔑称に代わって行ったとした。
記事は最後に、「日本の歴史のなかで堆積した『小中華』の考え方が存在するゆえに、日本の一部勢力は中国が再びアジアの中心になるまで台頭することを容認できないのだ」とまとめ、日中関係を分析する際には「この日本人独特の心理状態を忘れてはならないのである」と結んだ。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)