あのコもヤンキーだった!? 80年代アイドルたちのツッパリ列伝 | ニコニコニュース

アイドル=元ヤンキー?
テレビに映るかわいい子を見たら全員がヤンキーだと思え! かつてこの国のメディアにはそんな時代があったのだ。
70~80年代の「伝説のワル」たちの武勇伝やおもしろエピソード、また現在の姿などもふくめて徹底取材し一挙出ししたムック「有名人101人のタブーなヤンキー 女ツッパリ マル秘伝説」(双葉社)が、先日発売となった。
今回はその中に掲載されている特集記事「アイドルツッパリ列伝」をお届けする。

80年代のアイドル文化は「ヤンキー」なしには語れない

先日、興味ぶかいアンケートがネットで発表された。


「1位 武井咲 2位 佐々木希 3位 北川景子 4位 木下優樹菜」
カンのいい読者なら何のアンケートか、もうおわかりかもしれない。
「元ヤンだと思う女性芸能人ランキング」である。

たしかにみんなそうっぽいっちゃ、そうっぽい。でも葛飾区タイマン2位に輝いたガチヤンキーの木下優樹菜が4位。ほかのタレントの元ヤンぽさの根拠は、「なんか気が強そう」「目つきがキツい」とイメージやネット上のウワサに左右された風評被害だったりする。

いや、事実かどうかは問題じゃないのかもしれない。どこかヤンキーの影があることが重要なのだ。でもコンビニの前にたむろすウンコ座りの不良少年少女たちを見なくなり、「ヤンキー絶滅時代」といわれるこの時代、なぜそれでも人はアイドルにヤンキーの影を見たがるのか!?

そのルーツはまちがいなくアイドル全盛期の80年代にある。アイドル=元ヤンキー出身、テレビに映るカワイイ子を見たらツッパリと思え! かつてそんな時代がホントにこの国にはあったのだ。

1980年代はじめ、バブル前夜の日本は空前のツッパリブームのまっただ中。横浜銀蠅のの『ツッパリHigh School Rock’n Roll』や嶋大輔の『男の勲章』などツッパリソングが次々とヒットチャートをにぎわせ、なめ猫グッズも大当たり。学校一「マブい女」は薄いカバンに長いスカート引きずって重役登校。

そんな時代にデビューしたアイドルたちは――しつけに厳しい両親のもとで育った清純派の松田聖子さえ「地元の暴走族のリーダーと付き合ってた」とウワサされるほど――どこかしらにヤンキーの気配をふくんでいた。少年たちはどこか不良の影のあるアイドルに熱狂し、暴走族まがいの親衛隊を結成してコンサート会場に押しよせていたのだ! アイドル文化とはつまり、ヤンキーカルチャーとともに80年代を歩んでいたのである。

ブームの先陣をきった火付け役といえば、やはりこの人、「ヤンドル界のトップランナー」こと三原じゅん子しかいない。子役時代からどこか影のある役を演じてきた三原は、『3年B組金八先生』の不良少女役で大ブレイク。自分は一切手を出さず、舎弟たちに殴らせたリンチシーンでのセリフ、「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを!」 は流行語にもなった。


『金八』以降は、どんなにかわいい衣装を着てもぜんぜん消えてくれない己のヤンキー性を自覚したのか、「JUNKO」名義でロック活動をしてみたり、「走り出したら止まらないぜ!」とばかりにヤンキー路線まっしぐら。
1987年には週刊誌記者をなぐって暴行容疑で現行犯逮捕されたが、事実はドラマよりも濃し。じゅん子の姐御はヒザ蹴りからのマウントで記者の髪をつかみ、後頭部をコンクリートにガンガン打ちつけるという北野映画なみのバイオレンスぶり。

そんなじゅん子も2010年には参議院議員に当選し、「あの狂犬もようやく落ちついたか……」と周囲の胸をなでおろさせた。と思いきや、やはりやってくれた!

2015年3月、「"八紘一宇"は建国以来、日本が誇るべき精神です」と戦後ながらく封印されていた四文字を参議院予算委員会の席上でぶっ放したのだ。「時代錯誤!」「日本の右傾化を象徴だ!」と野党からはケンケンガクガクの大バッシングをくらったが、今の野党はこれだからダメである。歴史認識の問題なんかじゃない。これはじゅん子の精神に宿るヤンキーイズムの基本、「夜露死苦」みたいな小むずかしい四文字熟語好きがまだ治ってなかっただけの話なのだ。

それにしても、「夜露死苦」から「八紘一宇」へ。成長といえば成長、ブレないといえばブレない姐御である。


ミイラ取りがミイラになって泥沼にはまるケースも

かといって、すべてのヤンキーアイドルが三原じゅん子のようにバリバリの極道路線なワケでじゃない。むしろ大多数は80年代に巻きおこったツッパリブームのために事務所からムリヤリ不良少女路線に変えられた「作られたヤンキー」だった。

たとえば南野陽子。スケバンの刑事役を演じ、「おまんら……許さんぜよ!」のキメゼリフで一躍ブレイク、トップアイドルの座をつかみとったが、本人のパーソナリティはいたっておっとり清純派。その後リリースした『吐息でネット』『はいからさんが通る』などのヒット曲もヤンキー性はみじんもない。

憧れのおフランス在住、今やエレガントなセレブレティの香りしかしない中山美穂も、当初は「オトナっぽいキツめの美人」というそのルックスからツッパリキャラで売り出されていた。『毎度おさわがせします』のツッパリ少女・のどか役でドラマデビュー、初期の代表作も『セーラー服反逆同盟』などのスケバン役と、ヤンキー役ばかり。「ミポリンといえばヤンキー」としばらくはツッパリイメージが抜けなかった。

ほかにも『はいすくーる落書』の斉藤由貴や『不良少女とよばれて』の伊藤麻衣子……と「作られたヤンキーアイドル」には枚挙にいとまがない。それでもブレイク後はみなツッパリイメージからの脱却をはかり、紆余曲折はあっても現在は幸せな人生を歩んでいる。

だがミイラ取りがミイラになって、ドロ沼から抜け出せないケースもある。


悲劇の歌姫、中森明菜である。16才で当時のアイドルの登竜門だったオーディション番組『スター誕生!』に合格、シングル『スローモーション』でデビュー。と、ここまでは〞花の82年組〞と呼ばれた同年代のアイドルと変わらない。問題は2作目の『少女A』だ。
「黄昏れ時は少女を大人に変える素肌と心はひとつじゃないのね じっれたい じれったい……」
チャラチャラ歌うアイドルが多いなか、全盛期の山口百恵を彷彿させるビブラートとドスのきいたハスキーボイスを響かせ、大ブレイクしたのだ。

この作品は、当時起こった実在の『歌舞伎町ディスコ殺人事件』をモチーフにしているとされる。82年、家出少女が歌舞伎町のディスコで知り合った男から「一緒にドライブに行こう」と誘われ 、クルマに乗り込んで行方不明となり、翌日に絞殺死体として発見された今もって未解決の殺人事件である。そのイメージに、誰もがふりかえる美少女ながら、どこかさびしげな影のある明菜のイメージがハマりにハマって、『セカンド・ラブ』『飾りじゃないのよ涙は』とヤンキー路線をつっぱしった。

明菜のバックボーンをさぐっても不良少女だった過去はない。東京の辺境ともいえる清瀬市で育ち、家庭は金銭的に恵まれているとはいえなかったが、小学校からバレエを習うなど非行とはほど遠い環境で育っている。


デビュー当初は――その後のイメージからは想像つかないかもしれないほど――ふっくらとして健康的ですらある。だが校内暴力が吹き荒れ、深夜のゲームセンターやディスコに不良少年や家出少女がたむろした時代に、「影」どころか孤独な「闇」を感じさせる明菜は行き場のない少女の想いを代弁するミューズとなった。松田聖子が「陽」なら、中森明菜は「陰」。80年代前半、誰もかなわなかった女王・聖子と肩をならべられたのは明菜だけだろう。

しかし89年、交際中のマッチの自宅マンションで起こした自殺未遂騒動から転落がはじまる。骨折でのドラマ降板や損害額1億円ともいわれるディナーショー中止などスキャンダルがあいつぎ、摂食障害で激ヤセ、家族とも絶縁、ついには公の舞台には姿を見せなくなり……と、大映ドラマを地で行くような壮絶な不幸っぷりは、今やいつもはエゲない情勢週刊誌さえネタにできないレベルに達してる。それでもまだまだ人気は根強く、昨年リリースしたベストアルバムはCDセールスが低迷するなか、売り上げ25万枚を突破! 待望論をうけて年末の紅白歌合戦にもニューヨークからの生中継で復活をはたしたのだった。

はたしたのだった、が……。


「みなさんにすこしでも……あたたかさ……とどけばいいなと……おもいます……」
ボリュームをマックスにしないと聞きとれない放送事故レベルのウィスパーボイスで、年の瀬のお茶の間を凍りつかせた明菜。無理に背負わされた不良少女のイメージは、もはや明菜の宿命なのか……。
コンサート会場には常にホンモノの暴走族が取り巻き

中森明菜や南野陽子がブレイクしたツッパリ全盛の時代をすぎ、80年代も後半のバブル期に突入していくと、ヤンキーアイドルも様変わりしてくる。「リアルヤンキー路線」ともいうべきか、街でハデに遊んでいたような等身大のヤンキー少女たちが芸能界デビュー、次々とブレイクしていったのだ。

80年代ディスコの定番ナンバー「ダンシング・ヒーロー」のカーで大ブレイクした荻野目洋子。「中学時代、オール1だった」「H初体験? 高校の時、先輩と」とインタビューでさらけ出していた飯島直子。別れた男が毎日のように部屋の前に花を置いていくのを見て、「うちは事故現場じゃねーんだよ!」ってツッコんだのはリアルヤンキーならではの痛快さだ。

日活ロマンポルノでデビューした美保純を「アイドル」のワクに入れるかどうかは、議論の余地があるかもしれない。だが静岡の不良娘出身、芸能界デビューのきっかけも「ディスコクイーンコンテスト」の優勝という美保純が、ドラマや映画でなにかと重宝されたのは「近所のスナックにいる癒してくれそうなヤンキー姉ちゃん」というリアリティだろう。見た目はワルそうだが気立てはいい、「アタシバカだからむずかしいことよくわかんないけどサ~」といいながら時に芯をくった発言をするという唯一無二のポジションが、今もって大衆からもとめられているのは『あまちゃん』からの再ブレイクでも証明ずみである。

だがこの時期、誰よりリアルヤンキーから熱すぎる支持をえていたのは「北関東の姫」工藤静香だった。ヤンキー漫画『ろくでなしBLUES』で彼女をモデルとした「工藤静香子」の婚約報道でキャラクターがショックを受ける、というエピソードがあるように、工藤静香とはヤンキーカルチャー全盛期に咲いた大輪の薔薇(紫色)なのだ。

おニャン子クラブ在籍中から、そのメンバーのなかでも異彩を放っていた。おニャン子は原則、学業最優先だったが、「学生時代に年上をパシリに使ってた」「楽屋に制服を忘れて1週間登校しなかった」というヤンキー気質は水をえた魚のようにソロ活動で花ひらく。

『MUGO・ん…色っぽい』『嵐の素顔』『慟哭』。地底を這うようなケレン味たっぷりのビブラード、激しいダンスにもゆるがない前髪、鋼鉄のごとき肩パット。ちょうど自殺騒動の渦中にいた中森明菜と入れ替わるように、静香の「マブさ」に全国のヤンキー少年たちは感染した。コンサート会場にはつねにホンモノの暴走族が取り巻き、ライブ終了後には、暴走族がどっちが静香を先導するかで仁義なき戦いをくり広げていた。

しかし、その時だった。


「いい加減にしろ! アタシが通れないじゃねぇかよ!」
甲高いあの声で一喝した静香。あまりの剣幕に、ケンカは一気におさまったという。

その後も静香は、極道の妻役を演じてみたり、作詞家として「愛絵理」という「らしい」ペンネームでデビューしてみたり、主演したデコトラ映画では自らトラックをペインティングしてみたり、YOSHIKIや的場浩司など数々の浮き名を流しながら、「元々静香のファンだった」という天下のキムタクを落として姐さん女房におさまってみたり……と姐御伝説にはキリがない。

麻雀でいえば役満、フランス料理で言えばフルコース。三原じゅん子姉御のように武闘派ではないが、ヤンキー文化の要素をひとりで網羅する存在こそ工藤静香その人なのである。80年代のヤンキー文化が生み出したモンスター、工藤静香。90年代以降も相川七瀬やモー娘。後藤真希、AKB板野友美まで、雨後の筍のように次々とヤンキーっぽさを売りにするアイドルや歌手がデビューしたが、静香に肩をブツけられる、おっとまちがった、肩を並べられる存在はいまだ出てきていないのである。

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