神戸連続児童殺傷事件の犯人、「元少年A」。手記『絶歌』(太田出版)を上梓してから3か月がすぎ、落ち着きを取り戻した様相であったがAはまたも動いた。
8月29日、女性セブン宛に手紙が届いたのである。手紙には、被害者への謝罪などはなく、饒舌に(当初出版を持ちかけた)幻冬舎・見城徹氏に対する手紙の内容も含め、出版経緯が綴られていた。さらに手紙の最後には、ホームページを立ち上げたことが書かれていた。そこにアクセスすると、贖罪意識のかけらもない自己紹介文と全裸も含める数々の写真が掲載されていた。このような少年Aの行動に対して、犯罪心理学者の矢幡洋氏に分析を依頼した。
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この手紙に書かれているのは、表現者として自分が表舞台に出たいという願望のみです。Aには罪悪感や贖罪意識というものがまるでない。
自分を“異端者”と表現しており、あくまでも共同体という平凡なものから排除される行為をやってしまっただけで、悪いことをしたという認識がないんです。
また、自分を巡る人間関係をドラマ化している。『「近いうちに自分は、この見城徹という底しれない怪物と接触することになる」そうはっきり確信しました』など、単に“一度お会いしたいという気持ちが高まりました”と一言で済むことを、あえてドラマチックに描きたがる。自分をヒーロー視している証左です。
手紙では見城氏への憎悪が綴られていますが、彼に対して本当に怒っているかどうかも疑わしい。怒りの文章にしては凝りすぎている。
Aが手紙で本当に言いたいのは、ホームページを立ち上げたという告知です。それを最も効果的にアピールするために、“真の出版プロセスを暴露する”という話でメディアを釣ったのでしょう。見城氏への怒りの部分は、単に自分のホームページに最大限の注目を集めようとする手段でしかない。
ホームページの中身に関していえば、犯行前から彼の自己像が変わっていないという印象を受けます。
Aは犯行前から、醜いナメクジこそが自分の“心象生物”だと定義しています。自分なんか人間じゃないという思いと同時に、自分は人間の領域を超えたことができるんだという思いが共存していた。これは、シゾイドパーソナリティ(統合失調症)の一種です。今もナメクジにこだわっているあたり、その内面に変化はないのでしょう。
それから、セルフポートレートの中に月と太陽のイラストがありますが、犯行時にAが自ら創り出して崇めていた『バモイドオキ神』のイラストの中にも、同じように太陽と月が描いてある。
このセルフポートレートでは、当時バモイドオキ神を描いていた位置に、自分の身体を置いている。今の自分は神に成り代わったという意識の表れなのか。いずれにせよ、Aの中にある崇めるべきイメージは18年前から変わっていない。
ただ、今のAが再び犯罪に向かうかといえば、その可能性はないと思います。過去の犯罪を栄光として、今度は表現という形で花咲かせようとしている。
問題なのは、このホームページが青少年にどれだけの悪影響を与えるか想像もつかないことです。
あれだけの犯罪を犯した人間が、露骨な自己主張を潜めた情報発信を開始する。Aにアンチヒーロー的なあこがれを感じている一部の人間にとっては聖なるサイトと化し、必ず崇拝者が現れるでしょう。Aは一種の教祖的存在になり、社会に影響力を行使し続けることになる。
今後の日本社会の中で、青少年の精神風土のネガティブ面での大きな核となっていってしまうのではないか。このホームページには、それほどの恐怖を感じます。
※女性セブン2015年9月24日号