太平洋戦争中、国内最大規模の捕虜収容所「福岡俘虜(ふりょ)収容所第2分所」があった長崎市香焼町で13日、収容中に死亡した捕虜73人を追悼する記念碑が建立され、除幕式が開かれた。
式典には、元捕虜の遺族や大使館関係者ら約110人が出席した。生存者として唯一参列したオランダ人元捕虜のヘンク・クレインさん(90)は「多くの仲間が亡くなった。きょうここで彼らを追悼できた。準備をしてくれた人々に感謝したい」とあいさつした。
クレインさんは、17歳で当時オランダ領だったインドネシアで日本軍の捕虜となり、約3年間、第2分所に収容された。クレインさんは「厳しい状況で生き残れたのは、仲間とユーモアがあったからだ」と述べた。
クレインさんは式典に先立ち長崎市内で記者会見し、「寒い冬、食事をストーブで温めたのが見つかり、外でバットを膝に挟んで正座させられたのが一番つらかった」と振り返った。解放後70年ぶりの来日で、「当時の嫌な思いを引きずってはいない。これからの平和のために来た」と話した。
原爆投下当時は、爆心地から約10キロ離れた造船所にいて、建造中の船の下に隠れたという。「目が開けられないほどの光だった。どんどん窓ガラスが落ちてきて怖かった。その後、外で燃える長崎の街ときのこ雲を見た」と話した。
捕虜問題を調査する民間団体「POW(戦争捕虜)研究会」によると、第2分所にはオランダ、英国、米国などの捕虜がピーク時には約1500人収容され、近くの造船所で働かされた。1945年9月13日に米軍に引き渡されるまでの約3年間で、病気や造船所の事故などで73人が死亡した。