震災の爪痕いまだ癒えず...石巻市大川小学校の遺族が立ち上がった | ニコニコニュース

震災の爪痕いまだ癒えず...石巻市大川小学校の遺族が立ち上がった
東京ブレイキングニュース

 東日本大震災から4年半が過ぎた。被災地での経験や教訓をどう生かすのかが今後の課題だ。そんな中、宮城県石巻市市内の私立日和幼稚園と、同市立大川小学校遺族が、「『学校事故に関する調査研究』有識者会議」(座長、渡辺正樹・東京学芸大学教授)でヒアリングを受け、震災後の学校運営側の不十分な対応について話をした。犠牲となった子どもたちの命は今後に役立てられるのか。

●救えるチャンスはあったが、内陸部に住む子供たちが犠牲に

 石巻市の私立日和幼稚園は標高56メートルの日和山の中腹にある。そのため、園舎は津波被害はない。しかし、防災無線が鳴り響く中で、幼稚園のバスが海側の低地に向かっていった。そのため、津波に巻き込まれて、4~6歳(当時)の園児5人が亡くなった。

 亡くなった佐藤愛梨ちゃん(当時6歳)の母親、佐藤美香さん(40)は「園長は防災無線を聞いていたが、普段と同じ送迎の指示をした。おかしいと思う職員は誰もいなかった」と説明した。しかも、本来は海側に向かう2便目と、内陸部に向かう3便目が別だが、一緒に乗せられていた。そのため、内陸部に住む子どもたちが犠牲にもなった。本来では、愛梨ちゃんは3便目。海側に行く必要はなかった。

 しかし、犠牲になるまでに救えるチャンスはあった。バスは海沿いに向かうが、戻ってきたときに日和山のふもとにある門脇小学校で待機していた。バスの運転手が幼稚園に電話している。職員は「園児が門脇小学校にいる」と園長に伝えると、教員はバスに向かった。このとき職員はバスを出発させただけで、教員は園児を連れず、高台に避難した。もしこのとき、避難していれば......。

 また、幼稚園に戻る途中、バスは被災する。このとき、園児をそのままにして、運転手だけが幼稚園に向かう。このとき、一緒に避難することもできははずだが。さらに運転手が幼稚園に着いたとき、誰も園児のことを心配せず、運転手を休ませていた。迎えに来た保護者にも被災した園児のことを伝えなかった。

「住民の証言では、夜中の12時ごろまで子どもたちの"助けて"という声が聞こえていたそうです。幼稚園が教えてくれていたら助けられたかもしれない。みんなで抱き合っている子どもたちの姿を翌日に、私たち(遺族)が発見した」(佐藤美香さん)

 こうした経過を説明した上で、「幼稚園は危機管理意識を欠如していた。震災時の避難訓練は園児が机の下に隠れるというものだけ。バスの対応はなかった。職員間でも情報を共有せず、役割分担が機能していなかった。尋常じゃない地震後にバスを発車せるなど安全配慮義務にかけていた。なぜ、2便目と3便目のバスを日常的に一緒にしていたのかという保護者への説明がなされていない」などと話した。

 さらには、同幼稚園の場合、私立のため、私立学校法による「私学の自由」のために、幼稚園の防災に関しての監督部署が曖昧。公立の場合は、教育委員会が担当だが、私立の場合、窓口が県にあるだけ。なんの権限もない。「私立で何かあっても、遺族がたらい回し」(同)となる現状も訴えた。

 亡くなった5人の園児のうち、4人の園児の遺族は同幼稚園に対して、損害賠償を訴え、仙台高裁で和解となった。和解内容には、裁判所として、「今後、このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に活かされるべき」とした上で、幼稚園側から「心からの謝罪をする」旨が入っているが、これまでに直接、遺族には謝罪していない。

 一方、大川小学校では児童74人、教員10人が避難途中に津波の犠牲となった。次女のみずほさん(当時小6)を亡くした佐藤敏郎さん(52)は、「大川小学校だけがなぜ学校管理下で74人の子供を守れなかったのか。その事実は重い。市教委の事後対応は、書面から向き合っているものとは言えない」と発言した。

 大川小の近くには、しいたけ栽培で登っていたり、授業でも使っていた裏山がある。しかし、津波からの避難には使わなかった。地震から30分ほど経った後に、新北上川近くのやや高台になっている場所、通称三角地帯に避難をしようとしたが、その途中、川に遡上した津波があふれ、犠牲となった。

 石巻市教委は震災後の4月9日に開いた第一回目の説明会で、裏山に逃げなあった理由を「倒木があった」としたが、実際には倒木はない。6月4日の第2回目説明会では「倒木があったように見えた」と、説明を変えていた。また、2回目の説明会では遺族からの質問がまだあったにもかかわらず打ち切った。その後、報道側の取材に「遺族は納得した」旨の説明をしていた。

「このため、事実に向き合えなくなった貴族がたくさんいる。第2回目の説明会までの初期対応を検証すべきだ」(佐藤さん)

 また、「山さ、逃げっぺ」と言っていた児童がいたとの証言がある。市教委もその児童の聞き取りをしているはずだが、聞き取りのメモは破棄されて、「市教委としては(その証言を)押えていない」とした上で、「子どもの記憶は変わるもの」として、市教委の報告書でも、のちに設置された第三者の検証委員会でも、事実として認められなかった。

 さらに、その検証委でも、事務局と検証委員に親子関係の者がいたことの触れて、「これはおかしい。血縁関係は避けるべき。検証の妨げになっていた」と主張した。ちなみに、その事務局メンバーは、この有識者会議の委員でもあるが、この日は欠席した。

 検証委の報告書では提言が24なされているものの、佐藤さんは「子どもや保護者の証言は検証に使われていないし、(なぜ避難が遅れたのか、なぜ避難する場所が三角地帯だったのかという)核心を明らかにできなかった。不十分な検証であり、大川小の事故を踏まえたものではない」と指摘した。

 大川小の亡くなった児童74人54遺族のうち、23人の児童の19遺族が宮城県と石巻市に対して損害賠償を請求をしている。11月13日には、高宮検事裁判長が現地調査をする予定になっている。

 両遺族とも、「言いたいこと、伝えたいことがまだある」などとして、ヒアリングの継続を要望したが、同会議の枠組みでは、実現は難しいと見られている。それにしても、こうした事後対応について、文科省は正面切って、検証がしきれていない。日和幼稚園は私立だからできないか。私学の自由といえども、命に関わる防災対策は、文科省が監督すべきではないか。また、大川小は、学校管理下では、最悪の事故だ。今からでも本格的な検証がなされるべきではないか。

※上写真は大川小遺族、下写真は日和幼稚園遺族。

Written Photo by 渋井哲也

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