「格闘技をやっているのは、女のコにモテたいから」――欲望をストレートに表現するUFCファイター石原夜叉坊(やしゃぼう)。
そのキャラが注目を集めたのは、テレビ東京系で放送されていた『ROAD TO UFC JAPAN』という番組。UFCとの契約を目指す8人の日本人ファイターが、その生き様を見せながらトーナメントを戦うというリアリティ番組だった。
ダークホースだった石原は勝ち抜き、9月27日にさいたまスーパーアリーナで行なわれた決勝戦に進出。強豪・廣田瑞人(みずと)とフルラウンドの激闘を展開し、見事UFCとの本契約を勝ち取った。
久しぶりに強烈な個性を持ったスター格闘家が誕生する予感。ビッグマウスも猛々しい石原がロングインタビューで明かした、その衝撃的な半生とは!?
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―最初に『ROAD TO~』のオファーが来た時の気持ちはどうでした?
石原 これホンマ、人生ひっくり返せるやろって思いました。頑張っててもメディアに載らないという日本の格闘技の現状があったけど、これで変われるやんって。他のメンバーには大きな団体のチャンピオンとかレスリングのエリートとかいて、自分が一番肩書きのない選手だったけど、そんなんどうでもよくて。TVに出られるっていうのが一番大きかった。一番目立って足跡残したろって、そこだけですね。
―正直、実力よりキャラクター優先で採用されたのかと、当初は思ってたんですけど。
石原 ハッハッハ! 完全に一回戦で沈むタイプの(笑)。僕はホンマに運がいいんですよ。でも、この番組引っ張れんの俺だけやん!って思ってました。僕とDJ.taiki(声優の田村ゆかりに熱狂するアニメオタク)がいなかったら成り立たなかったやんって。
―それが、あれよあれよと勝ち抜いて。決勝戦は3ラウンド戦い抜いてドローでしたけど、この判定を聞いた時は?
石原 3ラウンド終了時に、僕はドローって読んでました。契約書には「延長4ラウンドまである」って書いてあったんで、「次取る!」と気持ちを入れたんです。
―え? 延長ラウンドありだったんですか。
石原 はい。で、セコンドのノリピー(田中路教)に「これ、延長っすね」って言ったんですけど、ノリピーは把握してなくて「延長はないよ」と。自信満々に言うんで、「もう戦わんでええんや」ってホッとしたんですよ。でも、延長やるみたいな空気になってきて、「オイッ!」ってノリピーを睨(にら)んだんですけど…戦える精神状況ではなかったですね。
―張り詰めていた気持ちが一度切れたら、もうダメ?
石原 この半年間、この会場で戦うためだけに頑張ってやってきたんで。もう戦わんでいいと思った瞬間に、体が熱くなってダラーンとなったんですよ。やっと終わったって。
―でも結局、4ラウンドは行なわれなかったですよね。
石原 UFCのスタッフも把握してなかったのか、インタビュアーが上がってきて廣田のインタビューが始まっちゃったんですよ。たぶん進行上のミスで、慌ててもう終わりにしようとなったんです。だから僕はめっちゃ運がいいんですよ、4ラウンド行くってなったら勝てる気がしなかったから。
―両者とも晴れてUFCファイターになったわけですが、そもそも格闘技を始めたきっかけは?
石原 マジメに格闘技やってる人からしたら「なんでやねん!」って思うかもしれないけど、モテるための選択肢が格闘技だっただけです。最初は地下格闘技だったんですよ。高3の夏休みに、地元(大阪)の先輩にムリヤリ出させられて。その頃の地下格闘技って、格闘技を習ってない街のケンカ自慢みたいな人しか出てなかった。
普通だったら関わりたくないような人をぶっ倒していくうちに、観客の女のコたちからミクシーのメッセージが届くようになって、「これ、モテるわ!」と。あの頃はめっちゃ遊びました。味をしめてやめられなくなりましたね。8戦して8勝6KO。それで、こんなとこじゃなくて、もっとモテる舞台に上がりたいと、ジムに入ってプロを目指しました。
―すべては「モテ」のためだと。生まれは鹿児島の徳之島ですよね。
石原 はい、でも小学校と中学校は大阪です。門真(かどま)っていうところで、僕は西成よりヤバイところだと思ってるんですけど。ボロい団地ばっかりで、周りは絵に描いたような田舎ヤンキーなんです。心斎橋に行くのに、まるで海外旅行に出るみたいにバリバリ気合入れるような。で、地元ではオラオラする。そんなところで育ったんで、「何があっても俺は退(ひ)かん」って度胸がつきましたね。
―子供の頃から運動神経はよかった?
石原 小3くらいまでは運動神経悪くて、強いヤツに泣かされる側でした。でも、スイミング習い始めたらめっちゃ足速くなって、運動なんでもできるようになったんです。そうしたら、オトンがいきなり厳しくなった。ケンカに負けて帰ってくると家に入れてくれないんですよ。
やり返しもせず一方的にやられて帰ってくると、オトンにはそれがわかるんです。「学校の椅子でもホウキでも使ってやり返してこい!」って。強い者には向かっていくけど、女のコと年下には絶対に手を出すなって、イイ育てられ方をしたなと思います。
―そんなお父さんは、夜叉坊さんが中3の時、事故で亡くなっているんですよね。精神的に荒れたりしました?
石原 ショックだったけど、それはなかったです。それより衝撃的だったのは、葬式にオトンそっくりの顔をした知らない男がふたりおったんですよ。「これ、おまえの兄ちゃんたちだよ」って言われて。ええ~! 俺、長男やと思ってたのに違かったんや!と。世間的には間違ってますけど、男としていろんなところにタネ蒔(ま)いて、今考えたらカッコええなと思いますね。オトンは今も憧れの存在です。
―お父さんのDNAを確実に受け継いでいるんですね。中学から野球を始めて、推薦で鹿児島の樟南(しょうなん)高校に。甲子園に何度も出ている名門だから、練習は厳しかったでしょ?
石原 ヤバかったですよ。寮は毎朝5時50分起床で点呼が始まって。朝からめっちゃデカいタイヤ持たされてひたすら走るっていう。僕はピッチャーで左のサイドスロー。1年生大会ではMAX141キロ投げました。
―それはすごい! ところが、野球は2年生で辞めちゃうんですよね。何があった?
石原 1年生の時から結構トラブってて。ケンカしたり夜中に寮抜け出したり。そのたびに監督は目をつむって庇(かば)ってくれてたんですけど、その頃は感謝の気持ちとかなくて今回もラッキー!くらいの気持ちで。バカな子でしたね。決め手となったのは、先輩に命じられてビデオレンタル店でAV80枚パクったんです。
―AV80枚!?
石原 お店もさすがに焦ったんでしょう、学校に防犯カメラの映像を持ってきた。映像見たら、完全に僕なんですよ! 周囲に高校ってうちしかないし、僕は真っ白なシャツに紺の半ズボン、ハイソックスに白靴という野球部の定められた服装をしていたので、すぐバレた。先輩は庇(かば)ってくれずに「僕がやりました」と白状しました。
イヤだったのは、未成年だから警察署に親も同行するんですけど、警察官がイジワルな人で「パクッたAVのタイトル全部読め」と。母親の前でですよ! 一番恥ずかしかったのは「岡山素人美女、オナニー手伝ってパート2」です(笑)。オカンも「ああ~」って下向いて。それで強制転校になり大阪に戻りました。そういうことです(笑)。
―お母さんは、そのために大阪から鹿児島に来たんですか!?
石原 その前にも何回も来てますよ、ケンカとかで。僕、夏に練習頑張り過ぎてぶっ倒れたことあるんですよ。その時もオカンは車で11時間かけて来て。病院で目覚めたら横にオカンがいて「なんでおんねん!」って。オカンにはめっちゃ迷惑かけましたね。
―ワルだったからこそ、今の夜叉坊さんの姿は誇らしいでしょうね。UFCと契約しましたが、日本では年末に“PRIDEの復活”と言われる『RIZIN』が始まりますが。
石原 地上派でも放送されるみたいだし、頑張ってほしいですね。実は僕も声かけてもらってたんですけど、UFCと契約しちゃったからしょうがない。
―あ、オファーがあったんですか。
石原 『ROAD TO~』決勝戦の前くらいに。めっちゃ悩んだんですけど。まあ、でも僕がUFCにいられるのは短い期間だと思うんで、それまでDJ.taikiとかに日本の格闘技を盛り上げてもらって、僕がUFCクビになって戻ってきたら主役をかっさらいたいですね。
―UFCに対して、随分弱気じゃないですか。
石原 いや、時間の問題でしょ。僕がアスリートにならん限り、たぶん勝てないんで。
―アスリートにはならない?
石原 ならないです。優先順位が違うんで。
―でも、モテの舞台が世界になるかもしれないじゃないですか!
石原 そうなんすけど、結局、日本に住んでるわけだから、世界中の女性が注目してくれても抱きにいけないじゃないですか!
―ハッハッハ!
石原 日本の人たちはUFC知らんから。年末の日本のイベントがTV中継されるなら、そっちのほうが絶対モテるし。とにかく僕は女のコをいっぱい抱えたいんですよ。そして次の世代のヤツらに「夜叉坊、マジでカッコいい、あいつみたいになりたい」って思ってほしいんです。でも、UFC行っちゃうと、そこがなかなか現実的じゃないですよ。やっぱフジテレビに出たら…とか。
―めっちゃ現実的な目線でブレまくりじゃないですか! いや、ブレてないのか(笑)。
石原 日本の格闘技は、大晦日組に任せて、僕はアジアから攻めていきます。UFCには、北米のオファーは要らんと言っているんです。欧米人にはルックスで勝てないんで。その代わり、アジアのオファーは全部くれと。アジアのUFCファイターにはスターがいないんですよ。顔面見ても全員ホンマにブスなんです、服装にも華がなくて。そう考えたら「俺、イケるぞ」と。結果を出して「アジアの夜叉坊」になって、各国の女のコを抱きます。これもモテるための戦略です!
―素晴らしいモチベーションです! 試合のない期間って、普段何してるんですか?
石原 夜遊んで、昼寝てます。バー行ってクラブ行って、パーティーするって感じっすね。
―パーティーピープル?
石原 ではないです。パーティーピープルは軽いです。
―一緒にするなと(笑)。
石原 クラブで朝まで遊んだ後、サクッと…。そんな感じの毎日ですね。ホンマ、心斎橋とか夜の街はなんでも好きなことができるんで。練習せずに夜中遊びまわって昼間寝るっていう生活を繰り返していて、俺ホンマこのままじゃあかん、クズになるわって思って。格闘家としてもう一コ上に行くために今年、東京に出てきました。
―東京も誘惑の多い街ですけどね~。さて、マジメな話に戻しますが…。
石原 ちょっと待ってください。僕は全部マジメですよ!
―失礼しました(笑)。夜叉坊さんはガードが低いけどディフェンスもいいし、パンチの当て勘もいいですよね。自分では、どこが強いと思う?
石原 特にないんですよね。「おまえは何が武器なん?」って聞かれても、なくて。めっちゃ目がよくて反応がいいんですけど、それを強さとは言えないし。なんでも中途半端にできて器用貧乏なんですよ。
ただ、『ROAD TO~』では、3試合とも全然違うタイプのトップクラスの選手と当たったんで、チームで作戦を立てて戦い方を変えて、めっちゃ成長できたと思います。
―まだまだ伸びしろがあるってことですね。
石原 そうっすね。UFCにはなんの武器も持たずに行くんですよ。戦いながら自分なりの武器を手に入れていこうかな。まずは丸腰で行きます、運だけで!!
―強運も武器ですしね! 10年後の自分は、何をしてると思いますか?
石原 人身売買でもしてんじゃないですかね、ハッハッハ!
―ハッハッハ!…ってブラックすぎてオチにならないでしょ!
石原 34歳でしょ、格闘技なんて絶対やってませんよ。僕みたいなタイプは28歳くらいで体が反応できなくなって終わるんで。体のバネと反応のよさが続く限りはぶっ飛ばしていきますよ。その間にがんがんメディアに出て、次のモテるステージを作っておきます!
■石原夜叉坊(いしはら・やしゃぼう)
1991年生まれ、鹿児島県出身。本名は石原暉仁(てると)。リングネームの「夜叉坊」とは、地元徳之島の方言で「暴れん坊」「やんちゃ坊主」の意味。2011年、修斗でプロデビュー。『ROAD TO UFC JAPAN』を勝ち抜き、9月のUFC日本大会での決勝戦で廣田瑞人とドロー、UFCとの本契約を獲得した。チーム・アルファメール・ジャパン所属。オフィシャルブログ「夜叉坊のBORN TO F××K」はこちら
(取材・文/中込勇気 撮影/長尾 迪)