昔々、古代中国の歴代王朝によって編纂された正史(史書)によれば、わが国にも国家の萌芽ともいうべき原始的な小国家が生まれていたようだ。その国が「倭国」や「邪馬台国」といわれていたことは、よく知られている通りである。
しかし、読み方が記録されているわけではないので、「倭国」は「わこく」と読むのか、「やまとのくに」と読むのかはわからない。「邪馬台国」も「やまたいこく」なのか「やまとのくに」なのかは定まらない。いったい、どれが正解なのだろうか。
いずれにしろ、この表記の仕方を見れば、倭は「いやしい」という意味で、倭国は「いやしい国」となり、邪馬台国は「よこしまで、野蛮な下界に住む者の国」ということになり、いいネーミングとはいえない。中華思想にとりつかれた者から見れば、周辺はみな蛮族の国になる。
これだけでも十分にややこしい問題になっているところに、さらに厄介な問題が発生したために頭が痛くなるわけである。
わが国はもともと、倭国(大和朝廷と解釈されている)と日高見国(日本国という名前の起源といわれる)の2つの国に分かれていたというのだ。そして、やがてひとつの国に統一され、「日本国」と名乗るようになったのだという。
「そんな説は聞いたことがない」というのが大方の意見だろう。しかし、古代中国の史書『旧唐書』と『新唐書』に記録されているため、頭ごなしに否定することはできない。五代十国時代の後晋で編纂された『旧唐書』「東夷伝」の「倭国伝」には、以下のように書かれている。
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世々中国と通ず。其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す」
「倭国は古の倭奴国なり」という記述を見れば、前漢王朝から「漢倭奴国王」と刻まれた金印を下賜された国の子孫であることがわかる。そうなると、倭国は北九州方面に勢力を張っていた王国の子孫がつくった国ということになる。
●新旧の『唐書』で正反対の描写
ところで、これとは別に「日本国伝」という見出しが立てられ、次のような記事が載せられているのだ。
「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰う。倭国自ら其の名の雅ならざるを惡み、改めて日本と為すと。或は云う。日本は舊小国にして倭国の地を併せたりと。其の人、入朝する者は多く自ら衿大にして實を以って對えず。故に中國、焉れを疑う」
わかりやすいように、整理して箇条書きにしてみよう。
(1)「日本国は倭国の別種なり」と書かれている。当時の中国にはその認識が定着していたと見え、宋代初期の『太平御覧』でも同様の記事があり、2つの国である旨が引き継がれている。
(2)「其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す」と、日本国という国号が生まれた由縁について説明されている。聖徳太子が遣隋使に持たせた国書の中で「日出づる国の天子、書を日没する処の天子に致す」と述べたことに通じる。
(3)さらに、国号命名の由縁について、「倭国自ら其の名の雅ならざるを惡み、改めて日本と為す」と記載されている。文化レベルが上がり、漢字の意味を理解するに従って「倭国も邪馬台国も、わが国を侮蔑した表現であることがわかってきた」ということである。
(4)そして、「日本は舊小国にして倭国の地を併せたりと」と書かれている。日本国が倭国を吸収合併したのだから、日本国と名乗ろうというのである。小国日本が大国倭国を併合したため、国号が日本国になったということだ。
(5)しかし、702年の遣唐使がその経過について皇帝に説明できなかったため、皇帝は疑って信用しなかったというわけだ。
この『旧唐書』が完成、奏上された945年の翌年には後晋が滅亡してしまったため、北宋になって改めて『新唐書』が編纂されることになった。この時から、それまでの『唐書』は『旧唐書』と呼ばれ、『新唐書』の編纂に当たって、当然ながら編纂者も交代する。
そして、『新唐書』でも、ほぼ同様の記事が書かれている。ただ、『旧唐書』では「小国の日本国が大国の倭国を征服した」と書いているが、『新唐書』では「倭国が日本国を併合し、日本国と名乗った」と書かれている。
正反対の状況になっているわけだが、いずれにしろ、倭国と日本国に分かれて対立していた2国が統一され、ひとつの国になったという流れは、歴史的事実だった可能性が高い。
しかし、なぜ国号が倭国から日本国になったのだろうか。そのあたりの事情については、次稿で明らかにしたい。
(文=最上光太郎)