学力については、確実に公立のほうが多様性がある。逆に中学受験を経て入学してきた私立中学の生徒たちの学力は拮抗している。たしかにそこに私立中学生の弱点はあるかもしれない。
自分と同じくらいの学力の人とのコミュニケーションは楽だ。同じような知識レベル、思考力の友達とばかり話をしていたら、そうでない人たちとの会話に違和感を覚えるようになるものだ。たとえば「なんでこんな簡単な問題がわからないの? わからないことがわからない……」みたいなこと。
しかし、生徒の学力が拮抗していることはメリットととらえることもできる。
最近では公立の中学校でも、特に数学や英語に関しては習熟度別の授業を取り入れるようになってきている。学力が高い子にはそのレベルに合わせた授業が必要だし、遅れをとっている子にはそれなりの手当てをしてあげないといけないからだ。
その点私立中学においては、首都圏約300の私立中学全体が1つの習熟度別学習システムのように機能しているといえる。中学入試というフィルターを通してそれぞれの生徒がそれぞれに適した学校に収まるようになっているのだ。
中学入試というフィルターが、単に学力レベルだけを見極める機能を果たしているわけではなく、子供の個性までをも見抜こうとしていることは、拙著『名門中学の入試問題を解けるのはこんな子ども』(日経BP社)に詳しい。
現在子供の学力や個性に応じた個別教育の重要性が訴えられているが、少なくとも首都圏約300の私立中高一貫校は、300校の集合体全体として、子供たちの学力と個性に応じてかなり細かくセグメントされた個別教育を実現するしくみだといえるのだ。詳細は拙著『進路に迷ったら中高一貫校を選びなさい』(ダイヤモンド社)を参照いただきたい。
生徒たちの学力が拮抗していることは別のメリットももたらす。
もし学力に明らかな差があれば、教室の中で、「あいつは頭がいいやつ」「あいつは頭が悪いやつ」という固定概念ができあがるだろう。少なくとも学力の面においては、文字通り、偏差値基準でヒエラルキーができあがる。
しかし、学力が拮抗していればこそ、「くっそー、今回のテストでは負けたけど、今度こそ負けないぞ!」みたいな健全な競争が生じる。あるいは、「あいつには数学ではかなわないけど、英語では負けない」というようなことが頻繁に起こる。そしてお互いの得意分野をお互いに認め合う文化が生まれる。「数学のことなら、あいつに聞こう」「英語のことなら、あの子だ」など。これこそ本当の意味で多様性を認める文化といえるのではないだろうか。
生徒たちの力量が拮抗しているからこそのメリットはまだある。部活、学校行事などで、誰がリーダーになってもおかしくはない。「文化祭ではAさんがリーダーだけど、運動会ではBさんがリーダー」というように、状況によってリーダーが変わる。リーダーが固定化しないのだ。
あるときはリーダーとしてリーダーシップを学び、あるときはフォロワーとしてフォロワーシップを身につける。どんな組織にどんな立場で関わっても、自分のすべきことが自分で見つけられるようになる。
特に女子校の場合、「生徒会長や応援団長は男」というような既成概念は絶対にない。男子校なら、部活でおにぎりを結ばなければならない場合でも、女子マネージャーがやってくれるというようなことはない。全部自分たちでやらなければならない。男子校・女子校では、「男だから」とか「女だから」という概念がないのだ。実は男子校・女子校はジェンダーニュートラルなのだ。
男子校・女子校の教育的メリットについては、拙著『男子校という選択』および『女子校という選択』(ともに日本経済新聞出版社)を参照いただきたい。
学力最上位に位置する中学に入学した場合、「小学校では常に一番だったのに、受験をしていい中学に入ったら平均以下の成績になってしまい自信を失うケースがある」といわれることもあるが、よく考えてみるとおかしい。中学受験をしている最中から、塾の模試を受ければ自分よりできる子がたくさんいることは知っていたはず。第一志望の名門校に入ればそんな子ばかりであることは最初からわかっているはず。そこで平均以下だからといって落ち込むことはないはずだ。
しかしそれでも落ち込む子がいるというのは、子供本人の問題ではなくて親のせいではないかと私は思う。「こんな成績でがっかりだ!」と親に叱られ続ければ、子供が自信をなくすのは当然だ。子供自身が勝手にショックを受けて勝手に自信をなくすということはまずないのではないかと私は思う。
地元の小学校では常に一番だったのに、私立中学に入ったら一番ではなくなってしまうというのは、実は子供にとっては貴重な機会でもある。親が余計なプレッシャーさえかけなければ、の話だが。
これまでずっと「優等生」でいなければいけなかったのに、中学に入ってからは「優等生」をやめられるのだ。常に一等賞をとらなくていいのだ。他人の目を気にせず、自分らしく好きなように振る舞うことができるのだ。
学校は勉強だけをするところではない。仮に成績上位になれなくても、部活では活躍できるかもしれない。行事の仕切り役として手腕を発揮するかもしれない。クラスのムードメーカーとしてなくてはならない存在になれるかもしれない。そうやって「優等生」が新たな自分を発見することができるのも、難関校に通うメリットなのだ。
(教育ジャーナリスト おおたとしまさ)