心の底まで悪で凝り固まった悪魔のような人間というのは普通いません。誰でも善良な面を持っているものですし、その人物の評価は見る人によってずいぶん変わるものです。歴史上の人物の中にも「悪いなあ」と思われがちですが、実はそんなことはないという人がたくさんいます。今回は、そのような人物をご紹介します。
●吉良上野介
吉良上野介(吉良義央)は『忠臣蔵』の敵役として知られ、そのために非常に悪いやつと思われがちです。しかし、彼の領地である三河国幡豆(はず)郡では名君として領民に慕われた人物だったのです。1686年(貞享3年)に領内の治水事業の一環として「黄金堤」を築き、新田開発に精力的に取り組むなど、地域のために大きな功績を残しました。現在でも地元では吉良義央は高く評価され、その遺徳がしのばれています。
●田沼意次
賄賂政治を行った、田沼時代は風俗の乱れた時代だった、なんていわれることが多いですが、実際はそうではなかったようです。幕府の財政赤字をなんとかすべく重商政策を取り、鉱山の開発、蝦夷地の開拓、また外国との貿易拡大などいろんな手を打ちました。結果、景気も向上したのですが、浅間山の噴火、天明の大飢饉(ききん)など不運もあり政情が不安定となって彼は失脚。しかし「意次は近代日本の先駆者」と評価する研究もあるくらいなのです。
●足利尊氏
室町幕府を開いた足利尊氏はあまり評価の高い人物とはいえないようです。後醍醐天皇の建武の新政を助けたものの、ついにはこれを見限って新たな武家政権を立てる動きをしたのがマイナス評価の理由とされます。しかし、建武の新政の内容はかなりむちゃくちゃで、武士の最も大事な「本領安堵」を脅かすようなものでもありました。そのため彼が後醍醐天皇を見限ったのはむしろ当然ともいえます。実際、非常に面倒見のいい武家の棟梁であったようです。
●徳川綱吉
江戸幕府の5代将軍で「生類憐れみの令」を発したことから「犬公方」の名前でも知られます。生類憐れみの令が天下の悪法といわれますので、綱吉も悪い将軍、統治能力に難ありと評価されがちです。しかし、一方で綱吉は日本に貨幣経済制度の基礎を築き(荻原重秀が優秀だったのですが)、元禄文化と呼ばれる華やかな時代をもたらしました。また、生類憐れみの令には「捨て子や老人、病人」を保護するようにといった良い内容も含まれています。実際、綱吉の死後もこれら良い内容はそのまま継続されました。
●蘇我入鹿
645年の「乙巳の変」で、中大兄皇子、中臣鎌足によって暗殺された蘇我入鹿は悪役のポジションです。それまでに最高権力者の地位を固め、専横の限りを尽くしたため誅されたことになっています。一方で、彼は非常に優秀な人物であったことが知られています。僧・旻(みん)の塾に学び、師より「最も優秀である」と評されているほどなのです(『藤原家伝』)。また、渡来人との交流にも熱心で開明的な人物であったという推定もあります。日本書紀ではけちょんけちょんに描かれていますが、さてどこまでが真実でしょうか。
●日野富子
室町幕府の8代将軍・足利義政の正妻ですが「悪女」といわれます。そもそも応仁の乱は、富子が自分の産んだ「義尚」を将軍にするためにあの手この手で画策したために起こりました。有力武士たちが義政の弟の「義視」派と「義尚」派に分かれて戦ったためです。また、富子は両軍に金を貸すことを思いつきこれで巨万の富(現在の価値で70億円ともいわれる)を築きます。このような行為のため、非常に後世の評価が良くありません。しかし、一方で非常にクレバーな計算のできる女性だったことは確かです。またその蓄財手腕を褒める向きもありますが……これはどうでしょうか!?
●明智光秀
以前「日本史上最も悪人だと思うのは!?」というアンケートで1位になったのが「明智光秀」でした。主君・織田信長を裏切り、自害に追い込んだのは事実ですが、その動機は今もはっきりしません。明智光秀自身は、実力主義の信長に取り立てられたことからも分かるとおり非常に能力のある人でした。また、領民を大事にした人物であったようで、現在でも明智光秀の徳をしのぶ地域があることからも彼の善政がうかがえます。
「歴史は勝者によって書かれる」といわれます。現在私たちに伝わっている歴史書の中で「悪人」として書かれている人物も、見方を変えれば「そうでもないかも……」となるのではないでしょうか。歴史家の研究が進めば、現在「悪玉」ポジションの人物の評価だって180度変わるかもしれませんね。
(高橋モータース@dcp)