水木しげるさんが死去しました。93歳でした。妖怪をはじめ、左腕を失った戦地での体験を漫画に描き続けた水木さん。「朝は寝床でグーグーグー」で有名な「ゲゲゲの鬼太郎」の原点には、70年以上も前、ニューブリテン島のジャングルで出会った、かけがえのない出会いがありました。
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傷病兵が見た「天国」
水木さんの元に「天国からの手紙」が届いたのは、1991年7月のことでした。水木さんは、締め切りが迫った仕事の手を休め、ピジン語で書かれ文面を読み解きました。
「天国」とは、ニューブリテン島で食糧欲しさに足を踏み入れた現地の集落のこと。一面の焼き畑にイモがきれいに植えられ、腰巻きひとつの人々が愉快そうに笑っている光景を前にした水木さんは、そこに「天国」を見ました。
集落にいたトペトロは、左腕を失った傷病兵だった水木さんを、やさしく迎えました。戦後も友情を温めていた2人。手紙は、トペトロの死を告げるものでした。
「鬼太郎」に描いた島の生活
戦地では、敵に通じている恐れがあるという理由で、集落に立ち入ることは禁止されていました。それでも、水木さんは毎日のように足を運びました。
トペトロの祖母には、わが子のようにかわいがられたという水木さん。食糧が足りないなら、と100平方メートルほどの焼き畑まで用意してくれました。
「日本の兵隊は、ぼくたちの酋長(しゅうちょう)を2人殺した。でも、お前はいい人間だ」。トペトロたちの優しい言葉が、水木さんの心に刺さりました。
トペトロたちは、涼しい午前中に働き、午後はたっぷり昼寝をしていました。自由に寝て、起きて、あくびをする。少年のころから「怠け者としてしか生きていけない」と思い込んでいた水木さんは、トペトロの村に入り浸ります。
その生活は、水木さんは描く「鬼太郎」たち妖怪の生き方そのものでした。
「のんきな自分を取り戻さないと」
水木さんが、再び「天国」を訪れるのは1971年のことでした。戦後、極貧生活の中、漫画家として作品を生み続けた水木さん。出世作「ゲゲゲの鬼太郎」のヒットによって、ようやく、トペトロに会いに行くことができました。
以来、何度となく訪れるようになります。
その後、村長になったトペトロ。現地を訪れた水木さんのために宴会を開いて、戦時中に水木さんが教えた日本語の童謡を歌ってくれました。
その時の思い出を水木さんはこう語っています。
「彼らに再会して、仕事に追い立てられる今の自分が幸せか、自問しました。とんでもない。のんきな自分を取り戻さないと――。量をセーブして、やりたい仕事を選ぶようにしました」
「なんて薄情なことを…」
トペトロの家に滞在中、水木さんのまわりには、若者が20人ほど一緒に寝泊まりしていました。その時は「変わった風習だなァ」と思っていた水木さんですが、後から、それが護衛であることに気づきます。
元日本兵である水木さんが襲われないよう、トペトロが気を遣っていたのです。
「食事にしても、わざわざオーストラリア米を買って炊き、コーヒー(ボーフラがたくさん入っていたが)やパンも、貧乏であるにもかかわらず、サービスしてくれた。しかし、私は何故か、ポマードを一個与えただけだった。いまごろになって、なんて薄情なことをしてしまったんだろ、と悔やんでいる」
「これをシアワセというのかもしれません」
トペトロに再会してから、水木さんは、妖怪と向き合う時間を持つようになります。妖怪を訪ねて、バリやらカナダなど、世界中を行脚しました。
「現地の音やにおい、雰囲気に触れると、地元の人が感じている妖怪を自分も感じられる気がします」
その後、多くの時間を妖怪に費やした水木さん。妖怪探求について、こう語っていました。
「遊びに熱中し、いろんなことにはっと驚く心を持つ。これをシアワセというのかもしれません」