11月30日、陸上自衛官の夫(34)の焼酎に猛毒のリシンを混入させたとして、宇都宮市在住の妻(33)が殺人未遂の疑いで逮捕され、毒の入手方法が話題になっている事件があります。今回は毒物に詳しいサイエンスライターへるどくたーくられがリシンを徹底解説します。
■超猛毒リシンの毒性
リシンというのは、世界でも最も強力な毒物としてトップ10をカウントすると、ランクインは間違いないと言われる超猛毒で、ラットでのLD50(半数致死量)は0.7μg(マイクログラム)/Kgというもので、サリンのヒトLD50であり約30 mg/kgに比べても何千倍も強力であるというのが分かります。青酸カリ(シアン化合物)と比べてもその凶悪さは比べるまでもありません。
ちなみに日本語だと必須アミノ酸のリシンと区別が付かないのですが、もちろんまったくの別物ですので混同なきよう。毒物としてのリシンはRicin、必須アミノ酸のリシンはLysine、綴りが違います。
話は戻って、詳しい人間での実験例や事件例が少ないのですが、理論上は、分子1個で体細胞1個を殺せるという(実際は代謝や解毒などの影響を受けるので、単純計算はできない)成人男性だと100~200μgで死ねるという、およそ目視不可能な量での致命的な猛毒です。
仮に純度50%以上で精製したリシンがうっかり粉塵として飛び交うと、チリをほんの数粒吸い込んだだけで死ぬ可能性が出てくるレベルと考えると、その恐ろしさが分かるかと思います。
近年のアメリカのドラマ、化学の暗黒面を描いたことで話題になった「ブレイキングバッド」でも後半の物語を盛り上げる毒物としてリシンが登場します。
そしてそんな超猛毒が主婦が調達して、旦那の酒に混入した......という事件がとりわけ話題になっているのですが、どうしてそんな猛毒を使ったにもかかわらず致命的ではなかったのでしょうか?
それにはリシンの性質によるものがありますので、少し視点をミクロにして話を進めていきましょう。
■リシンは扱いにくい毒
何故かというとリシンの超猛毒性は実は経口からではあまり機能しないと言われています。経口、つまり口から飲んでも効かない毒ということ。(もちろん100%安全というワケではないですが)
それはリシンという毒物が特異なタンパク質で消化器からの吸収が殆どされないという性質があり、さらに、リシンの材料となるトウゴマの実には他の低分子アルカロイド(タンパク質ではなく、多くの毒草にありがちなアルカロイドという低分子の毒物)が含まれており、それが中途半端な毒性を持つことから、その毒性の中に埋もれてしまい、リシンは経口でも毒性を発揮する!?!? というなんともいえない話にもなってしまうわけです。
■ドウゴマを利用する昆虫の存在
リシンの材料となるトウゴマという植物は、植物全体に様々な毒を持つことで動物や昆虫の食害を免れようと進化した植物です。
超毒リシンは、実はトウゴマのメインウエポンではなく、リシニンというアルカロイドが多く含まれており、それなりに強力で、症状も低血圧から発熱、呼吸困難などの症状はリシンとも共通しており、故にリシンは経口でも毒性があるとされることがるわけです。
リシニンはアルコールなどでも簡単に抽出できるので、犯罪に使われたわけですが、超絶猛毒ではないので、トリカブトなどのように確殺というわけにはなかなかいかない毒物となるわけです。
ちなみに、トウゴマの毒性を逆に利用した昆虫がいます。
チョウの飛び交う温室のある昆虫館などで、来場者を喜ばせている、シロクロ斑の美しい大蝶オオゴマダラなどは、こうした毒草の毒を体にため込むことで、自分で毒を持たなくても鳥などに襲われない様に利用していたりします。
幼虫はもちろん成虫も毒を持っているために襲われることが少ないため、幼虫は毒々しい色合い、成虫も大胆にヒラヒラと飛びまわって警戒心が薄いのです。
では、リシンのリシンとしての毒性、どうやったらその超猛毒を発揮するのでしょうか。
■リシンはどのように毒性を発揮するのか? 大量破壊兵器として利用も?
リシンは経口からではうまく吸収されないため、「毒を盛る」ということができません。しかし、血中に直接入れれば別。その信じられない凄まじい猛毒性を発揮します。
とはいえ注射するまでもなく、その粉塵を吸い込んだ場合は肺から直接体内に入ることで注射と同じように血中に乗ることができ、大量破壊兵器としての可能性も視野に入ってくる危険な毒物という一面が見えてくるわけです。
リシンはタンパク質で、分子量もアルカロイドに比べて桁違いに大きいので、そのままでは細胞内に入り込めません。
その構造はAパートとBパートがイオウで繋がった構造をしており、Aパート部分が人間の細胞表面にくると、カギとして働き、毒性の高いBパートの部分が細胞内に取り込まれることで毒性を発揮します。
毒性学的にはリシンは「リボ毒」と呼ばれるもので、細胞内でタンパク質合成を司るリボソームを標的とした毒物です。
リシンのBパートは細胞内に入ると28SリボソームRNAというリボソームの一部にはまり込むことで、そのタンパク質構造を加水分解して破壊するという仕組みを持っています。これが連鎖反応を起こし、細胞全体のたんぱく合成能力が失われていき、最終的には破壊に繋がるというわけです。
もう少し分かりやすく説明すると、細胞という家に絶世の美人が尋ねてきたのでドアを開けて招き入れると、背中のチャックが開いて完全武装のチャック・ノリスが出てきて暴れ出すというようなもので、運が悪いとたった1個の分子で1つの細胞を殺すことさえできる、まさに自殺命令ホルモンと言っても過言ではないレベルでの破滅的な攻撃力を持ちます。
■リシンで殺害された場合の症状
リシンの症状は、海外ドラマ「ブレイキング・バッド」でも描かれていたように、被毒後数時間以上かけてゆっくり死に向かっていきます。
最初は呼吸がしずらくなり、発熱、そして関節痛などといったインフルエンザや酷い風邪の初期症状のような症状を呈します。その後、その被曝量に応じて、肝臓、腎臓、膵臓とどんどん臓器が機能不全を起こしていき死に向かっていきます。
ちなみに、日本では、毒物事件自体が珍しいので、今回の事件のように騒ぎになっていますが、アメリカではほぼ毎年何らかの形でリシン(大半が精製方を誤った無害な粉)が脅迫として送りつけられるような事件が起きているものの、近年で死人は出ていません。
やはりタンパク質なので毒としての保存性の悪さ(かなり精製したうえで冷凍保存しておかないと毒性がどんどん失われる)、抽出精製の難しさがハードルとなっていいるようです(というか簡単だったらもっと対策されてます)。
難しいといっても、特徴的なタンパク質なのである程度の専門知識のある人間であれば、20~40%程度の粗毒を得ることは可能なのですが、そこまでして殺すなら鉄パイプで殴った方が確実ということで、実際にはまず使われません。
■リシンと暗殺事件
リシンが兵器として使われた明確な証拠はないのですが、1995年のイラン ― イラク戦争後に、イラクで兵器化された10Lの濃厚リシン溶液が発見されたと伝えられています。それらは、1980年代に何度か使われたのではないか......ということですが、詳しい資料はないようです。
リシンを個人的な人殺しの道具として兵器化して利用するのは効率的ではないようで、次に紹介するこちらの事件も、国ぐるみでの使用がされたものです。
リシンが使われた事件で最も有名なのが1978年ロンドンで起きたウォータールー橋での「ゲオルギー・マルコフ暗殺事件」と1981年のアメリカバージニア州での「ボリス・コルチャック暗殺未遂事件」が挙げられます。
いずれも有名な事件なので詳細はググってもらうとして、使われたのは空気ないしは少量の火薬で、特濃なリシンが金属のペレットに仕込まれたものが、通りすがりの男に打ち込まれたケースです。ゲオルギー=マルコフ氏は4日後に死亡、ボリス=コルチャック氏は一命を取り留めたものの重い障害を背負うことになりました。
この犯人はいずれも不明ですが、ロシアの秘密組織であるKGBではないかと言われています。
ともかく、リシンは大規模にエアロゾル化して兵器化するには、かなり大量の毒素を精製しなくてはならないため個人では難しく、注射用としても精製してから短時間にターゲットの体内に相手に打ち込むということが求められる以上、安易で簡単な毒物とはいかないわけです。
今回のニュースを見て、ネットで売ってるトウゴマから猛毒簡単に作れるじゃん!
とか甘い考えを持っても、それが非常に難しいからこそ、トリカブトと同じでとりたてて対策されてないわけです。
(文=くられ)
※イメージ画像:「Thinkstock」より