後輩のSくんから聞いた話です。
彼はまだ学生なんですが、少し前まではやんちゃばかりしてたんです。
ちょっと、いかつくて。スキンヘッドなんですけどね。
今は、自分の夢に向かって頑張って努力しているところです。
ところで、Sくんは子供の頃から、夢遊病だったんです。
夜中の二時や三時に布団を抜けだして、誰かと会話を始めたり、歩き回ってお茶を飲みに台所に行ったり、トイレに行くことが、月に三回以上もありました。
最初のうちは、家族も心配して、ちゃんと起こしてくれました。だんだん、自分から布団に戻るようになってくれたから、放っておくことにしました。
ある日の晩のことでした。
彼は、とっても疲れていて、すぐに布団に入りました。
ここからは、彼のお母さんから聞いた話です。
夜中の三時頃。
息子が、むっくりと起き上った。
すぐに玄関に向かったから、急いで後を追いかけた。
以前、息子は外に出て、怪我を負ったことがあったからだ。
息子は、玄関の前で仁王立ちになっている。
「アンタ、なにしてんの?起きなさい!」
両手で肩を掴んで揺さぶってみるが、まったく起きてくれない。
それどころか、息子はうわ言を言っている。
扉に向かって、外国語を話している。
誰かに、話しかけている。
日本語や英語ではない、よくわからない言葉で。
それを、誰かと会話しているかのように、「間」を置きながら発話している。
ごくふつうの日本語のように。
だが、扉の向こうには、誰もいる気配が無い。
静まりかえった夜があるだけ。
思わず、手が出る。
「あんたぁ!」
バシィンと、頬を平手打ちする。
「あっ、え、また起きてた?ごめん」
息子は、そのまま自分の寝床に戻っていく。
「いてぇよ」とか、言いながら。
Sくんの夢遊病は、まだ治っていません。
「べつに、寝ぼけてただけだしなぁ......」と、あまり気にしていないようでした。
これで、終わりです。
わたしの前で、イデマチは得意げな顔をした。
「前田さん、こんなカンジでいいですか?」
「うん。取材、ご苦労様です」
イデマチは、わたしと怪談を集めている仲間のひとりだ。
今月、わたしは仕事で街を離れることが多かったので、彼に取材を頼んでいた。
わたしたちは、市内のトルコ料理店で、羊のピザを食べていた。
「で、Sくんは大丈夫なの?」
「昨日も元気でしたよ。あっけらかんとしてて、すごく明るい子なんです」
「いいね。ところで、これって怪談なの?」
「えっ?」
「ただの寝言でしょ。怖いわけでもないし。何をもって怪談とするのかなって」
怪談というものは、自分の身に降りかかってみなければ、幻覚と変わりない。
「それなんですけど、Sくん、お坊さんになるのが夢なんです。どこかの寺に婿入りしたいらしくて」
途端に、寝言が怪しげなものに思えてくる。
異言だろうか。
キリスト教に於ける、聖霊から授かる言葉に。音に例えるなら、シガー・ロスが考案したホープランド語や、デッド・カン・ダンスが歌った「熾天使軍」が近いだろう。
ここでは、人間には理解できない言葉としておこう。
似たような話は、あちこちで聞いたことがあった。
まったく訪れたことのない土地の方言を、寝言で口走り続けた男性。
夜な夜な墓地で楽しそうに遊んでいて、最後には連れて行かれた夢遊病の男の子(もっとも、その最後は安らぎに満ちたものだったそうだ......)。
「そういえば、その寝言って、どんな感じだったの?」
「英語ではなかったって、言ってました。でも、間隔やリズムはちゃんとあったみたいです」
電話越しの会話を、片方だけ聞いたようなものか。
「ちょっと再現してみてよ」
わたしは、ピザを平らげながら、イデマチに冗談を飛ばした。
「無理っす。Sくん、まったく覚えてませんでした」
「なんだろうな、コレ」
「寝言でしょ」
イデマチは、あまり面白くなさそうな顔をした。
わたしたちは、デザートにバクラヴァを注文した。シロップをかけたミルフィーユだ。
「正直に言うけど、わたしには、どうしようもできない。話は聞くけど。だって、Sくんって、具体的に困ってる?」
「いや、特には」
イデマチは、わたしの顔を、だれか知らない人の顔を見るように眺めている。
「じゃあ、このへんで止めておこう」
自分が無意識のうちに何をやっているかなんて、ひとりじゃ防ぎようがない。意識と意識が途切れている間、わたしは本当に「わたし」のものであり続けるのだろうか。
だいたい、目の前にいるこいつは、どうなんだ。
わたしたちは、スムーズに別の話題を始めた。
デザートの味は、まったくしなかった。
筆者:前田雄大怪談団体「クロイ匣(ハコ)」の主宰者。関西を中心として、マイペースに怪談活動を行っている。https://twitter.com/kaidan_night