一二月六日、日曜日。午前八時に起床。前日の仕事が深夜まであり、寝不足気味。朝食もとらずに、家を出た。
叡王戦の観戦記執筆の依頼を受けたのは、他の作家たちがやっていたから、であった。
正確にいうなら、青山七恵さんや朝吹真理子さん等、芥川賞作家たちが将棋の対局に招かれ新聞各紙で観戦記を書くという流れが確立していたのは前々から知っており、今年夏に芥川賞を受賞した自分のもとにもその依頼がきたのだった。召集令状が自分のもとに届いたという感じで、なんとなく断りにくかった。
しかし対局の一週間ほど前に打ち合わせをした際、自分が観戦記を書く媒体は新聞ではなく、ニコニコ動画を運営しているドワンゴだと知った。勝手に勘違いをしていた。
そんなわけで当日、対局の行われる会場である上野の国立科学博物館へたどり着く。立会人や専門誌の編集者、記者らが集まる控え室へ通された。朝食を食べていなかったので腹が空いており、紙皿の上に置かれていたチョコレート系のお菓子をムシャムシャ食べる。やがて、対局室へと誘導された。
対局室に入る前。先にいらっしゃった山崎隆之八段と、廊下で待機。話しかけてはいけない感じ、は実のところなかったが、さすがに話しかけはしなかった。やがて、郷田真隆九段もやってきた。これから対局する両者がそろい、パイプ椅子に並んで座る。
全員中に通され、分厚い座布団の上に正座しながら山崎、郷田両氏がおもむろに駒を並べ始める。無言でなされるその荘厳な雰囲気に、将棋をたいして知らない自分も圧倒される。
並べ終えた後、沈黙と静寂が訪れた。初手が出ない。二人とも伏し目だったり目を閉じていたり、豪華な巾着袋からなにか取り出したり。暑くもないのに扇子で仰いだり......相手を威嚇しているのか? 無言でいながらこれほどまでに緊張感のある場というものが存在することに早くも驚く。
等々思いながら数分経った頃、
「定刻になりました。それでは対局開始です」
え、今まで対局、始まってなかったの?
どうやら駒を並べ終えたあとは、対局開始の定刻になるまでじっと待つものらしい。そんなことも自分は知らなかった。はたして観戦記など書けるのか。先が思いやられる。
対局が始まってみると、お二方ともそれなりに目を開いていて、ともに「歩」を出す初手も案外早い。その段階で、記者控え室へ我々は移動した。すでに足のしびれの限界がきていた。棋士二人が使っている分厚い座布団と比べ、観戦席の座布団はとても薄いもので、いかにも膝に悪そう。もっとちゃんとしたものを用意してくれと内心ドワンゴに苛つく。そしていくら厚い座布団を使っているとはいえ、これから何時間も勝負に身を置く棋士のお二人はすごいと思った。イスに座ってもいいだろうに。子供の頃から正座ばかりしていると足の骨の成長点が痛み身長の伸びが早く止まってしまうとどこかで読んだ。
控え室のモニター前に座り、対局を見る。モニターは三つあり、磐上から映した天井カメラからの映像、対局場に設置されていた無人カメラから送られてくる両棋士の様子、そしてニコ生の放映画面。駒の動きだけ見ても勝負の展開が特に読めない自分は、解説付きのニコ生の画面ばかり見ていた。
郷田九段のアンニュイな「考える人」ポーズが、かっこいい。白髪の混ざり具合が銀髪っぽくて、神々しい雰囲気もある。
山崎八段は薄目で微動だにしないという、寝ていたようにしか見えない瞬間がいくつもあり、休息のとりかたのうまいベテラン兵士のごとく、静かな気迫を感じさせる。
それをモニター越しに見ている控え室では、将棋雑誌の編集者や棋士たち顔見知り同士でワイワイガヤガヤやってて、皆けっこうスマホとかをいじったりしていた。こんな気が散っているような雰囲気でもいいんだと初めて知った。なにしろ、序盤はとにかく勝負に動きがない。やがて周りの雰囲気にのまれ、僕も仕事のスケジュール調整とかをやりだした。
一二時半に、昼休憩になった。郷田九段はさっさと退室したものの、山崎八段は一人座ったまま、じっと考え続けていた。
鳥弁当を食べながらニコ生の放送を見ているうち、立会人も解説者も棋士であることからくるある種の緊張感に気づいた。棋士だから各々の方法論や価値観が確立されており、郷田、山崎両氏だけでなく、解説者も立会人たちも含めひょっとしたら全員がライバルなのかもしれないと思った。それくらい、将棋にすべてを賭けている方々の熱が画面越しにも伝わってきた。
休憩開け、弁当を食べたからか信じられないほど眠かった。紅茶をいれても眠気はとれない。対局を再開させた棋士お二人にそのような雰囲気は微塵も見られない。控え室では、雑談する声が止むことはない。記者や棋士の方々は当然将棋に詳しいから、駒が動いたときだけ気にかけておけば、そこから多くを知ることができるだろう。しかし子供の頃に少し将棋をやった程度の自分は駒が動いているのを見てもたいしてなにも知ることができず、どうしたものかといよいよ悩み始めた。
間近で見る対局の生の雰囲気を、とらえるしかない。
観戦者は対局室への自由な行き来が許されていると聞いている。眠気を振り払うように立ち上がり、対局室のある上階への階段を上った。
対局室の扉の前には、パイプ椅子に座った私服の若い男性スタッフがいる。再入場したい旨をその人に伝えると、
「いや、そういうの聞いてないんで、はい......」
入場を、止められた。
しかもなぜか半笑いで、こちらを馬鹿にしたような、常識を欠いた者を非難するようなニュアンスまで露わにしている。
「だから、観戦記を書くために、自由に入退出していいって、言われているんですよ」
「いや、聞いていないんで、そういうのは」
貴様殴るぞっ!
生で観戦するのを止められてしまっては、なにもできない。控え室でニコ生の中継画面を見ているのなら、家でニコ生を見るのとなんら変わらないのではないか? なんなら、自宅へ戻ったほうが、ニコ生を見るのに集中することもできる。着慣れないスーツだって脱ぎたいし。
生で観戦することは不可能で、そのくせ最後まで残ってくれと頼まれている。
控え室に戻ってしばらく経った、一四時二〇分。郷田九段の次の手が出るのは二時間くらいかかるかもしれないとの予測のもと、立会人の阿久津八段に、記者たちが図々しく対局を頼みだす始末。彼らは精通者だから、郷田九段・山崎八段の対局を生で見なくても、どんな手が繰り出されたか事後的に知っても原稿を書いたり語ったりできるのだろう。
つまり素人の自分も玄人の彼らも、誰も対局を生で見ていやしないではないか。
観戦記を五〇〇〇字程度書いてくれという依頼だった。ドワンゴ担当者との打ち合わせの際、そんなに書ける自信がないと伝え結果、「あくまでも目安なんで、半分くらいの分量でもいい」と言われている。予定より少ない枚数でも原稿料が変わらないのであれば、帰るよ? 本当に。
そう思い配布された当日スケジュール表を見直すと、対局終了後に「囲み取材」「感想戦」と書かれてあるのを知る。これらに自分が関与しているのだったか思い出せない。打ち合わせをした担当者に訊ねようにも、さっきまで一緒にいたドワンゴ運営者たちの姿がない。ニコファーレとかいう別の場に皆行ってしまったのか。質問しようにも、帰りようにも、それを伝える相手がいない。
気づけば自分は、腕を組んだ状態でうたた寝していた。しかし、注意してきたり、非難がましい視線を向けてくる人も周りに誰もいない。怒られないのなら、なにをやってもいいではないか。するとますます、自分はなんのためにここにいるのかがわからなくなる。なにをしても怒られないが、ただただ身柄を拘束されている。
一五時のおやつタイム、山崎八段の心ここにあらずな感じに目を奪われた。どらやきをあんなに無表情で食べる人は初めて見た。
一五時半頃、ドワンゴの担当者が控え室へやってきたところで、生で観戦したい旨伝える。すると今度はすんなり対局室へ通された。さっき入室を断ってきた私服の若い男は、アルバイト君だったのだろうか。
音をたてぬよう忍び足で観戦席へ移動し、立会人の横に座る。あぐらをかいてもいいと言われていたが、あぐらでも結構きつい。
郷田九段のうめき声が、時折聞こえた。
「そっか」
その場にいないと聞き取れないほどの声量で郷田九段がつぶやく。数分後、トイレに行くのか山崎八段が立ち上がり対局室の扉を開けようとしたところで、パチン、と乾いた音が響いた。
振り向いた山崎八段が数歩戻り、目を磐のほうへ向けたあと、空で指を動かしながらそのままトイレへ。戻ってきた山崎八段が打った次の手は早かった。一切の声も出されず、振られる指の軌跡だけが残る。
そしてさっきあんなに長考していた人が打ったのかと疑いたくなるほどに、郷田九段の次の手はさらに早かった。異なるスタイルの棋士たちが同化したかに見えた瞬間だった。同化することで、相手を惑わすかのよう。否、勝負が進み「そういうふうにしか置けない」という状況になり、加速度は増してゆくのか。各々にとり、次の一手は、一つしかない。それを探る行為は、迷う、というプロセスとも似て異なるだろう。
山崎八段からも、ため息に声帯が振動するようなうなり声が発せられるようになる。手で口を叩いたり、顎に手を当てたり、明らかにさきほどまでとは違う様相。前のめりだった姿勢も、垂直へと変わる。水を飲み「うーん」「うむ」と低い声。それに対する郷田九段の息。衣擦れの音と互いの息という些細な音が、獣じみて聞こえる、異様な空間だ。
山崎八段は、しょっちゅうトイレへ行く。歩きながら気分転換をしているのか。いっぽうの郷田九段は、飲み物を色々飲みまくっているわりには、全然トイレに行かない。
素人目にも鍔迫り合いとわかる戦況。キスの寸前みたいに、各駒が相手の駒と向かい合っているラインが各所にできている。一六時四二分、ようやく郷田九段がトイレに。その間、山崎八段が駒を進める。持ち時間が二時間を切っている郷田九段がトイレから戻ってこないことに、見ているこちらが身構えてしまう。郷田九段がどんな顔をするか想像してしまう――どちらの味方でもないのに、駒が一つ進められることで、極限状態の二人にどのような影響を与えてしまうのか、勝手に緊張してしまうのだ。郷田九段がトイレから戻ってこない間、山崎八段が「そっか」と三回つぶやく。自分にとっての有利な展開、不利な展開のどちらを悟った「そっか」なのかも、わからない。その二択とも違うだろうという気がした。磐場でなにが行われているかを正確に把握したという、どこまでもニュートラルな「そっか」なのではないか。そのニュアンスは、ニコ生の中継画面では伝えきれない。
終盤、有利だったはずの郷田九段がとある一手でどうやらミスをおかしたらしく、控え室の空気が一変した。皆が駄話をやめ、画面を食い入るように見だす。そこから先、山崎八段が盛り返してゆくまではあっという間だった。結果、山崎八段が勝利をおさめた。
こんなに楽しめる勝負事があるのかと、驚いた。なにも知らないズブの素人である自分にも楽しめたのだから、将棋という真剣勝負は、ニコ生中継でもより多くの人々が楽しめるはずだ。
(羽田圭介)
◇関連サイト
・[ニコニコ生放送]【将棋】第1期叡王戦 決勝三番勝負 第1局 郷田真隆九段 vs 山崎隆之八段【ニコルン対応】 - 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv242405802?po=news&ref=news
・将棋叡王戦 - 公式サイト
http://www.eiou.jp/