先日、某情報番組で「クリスマスに苺と生クリームがのっかったデコレーションケーキを食するようになった、というのは不二家の販売戦略だった」なんてトリビアが紹介されていた。
スタジオでは「へえ」なんて感じで驚いていたが、菓子業界的にはかなりよく知られた話で、バレンタインデーとホワイトデーにチョコやらマシュマロを贈るという習慣というのも、実は不二家が考案したプロモーション。冬から春にかけての日本人の糖分摂取に、この菓子メーカーが果たした役割は大きい。
ただ、クリスマスケーキに限って言えば、「販売戦略」というのはやや語弊があると思っている。なにかしらの明確なビジョンをもって仕掛けられたというより、「苺と生クリームがのっかったデコレーションケーキ」という販売スタイルに至るまではかなり苦労というか、紆余曲折をして辿(たど)り着いているからだ。
クリスマスにケーキを食べる習慣が広まったのは、終戦からようやく徐々に世の中が落ち着き、乳製品や砂糖の価格統制が解かれた1950年ごろからだと言われる。進駐軍の影響で、クリスマス文化が浸透したことに加えて、「ギブミーチョコレート」ではないが、日本人が甘いモノに飢えていた時代だった。
そんなムードを敏感に察知した不二家は1952年、クリスマスセールを開始。洋菓子店の軒先などでサンタクロース姿の店員がケーキを売りさばいたのである。
が、ここで売られていたのは「苺と生クリームがのっかったデコレーションケーキ」ではない。バタークリームのケーキだった。
なぜかというと、当時はケーキといえば、常温でも日持ちするバタークリームを使うのがお約束だったからだ。
バタークリームケーキが衰退した理由
では、それがなぜ今の形になったのか。菓子業界的に「通説」になっているのは、冷蔵庫の普及だ。「三種の神器」と言われた冷蔵庫はまだバタークリームケーキが幅をきかせていた時代、サラリーマンの月給の10カ月分という、今の高級外車のような扱いだった。
それが1960年代に入ると一気に消費者の間に普及したことで、これまでは保存的にも難しかった生クリームケーキも普及し、クリスマス商戦でもシェアを占めるようになったというのだ。
なるほど、確かに理にかなっていると思う半面、このストーリーにはちょっとひっかかる。冷凍という保存方法を獲得した消費者がすすんで「生クリーム」を望み、それに応える形でメーカー側が商品を生み出した、みたいな「美談」にしようという作為が感じられるからだ。
歴史を振り返れば、バタークリームケーキが衰退し、生クリームケーキが台頭した背景には、消費者の嗜好より、供給者側の「都合」が関係していたのは明らかだ。
それはバター不足だ。
以前のコラムでも触れたが、戦前・戦後を通じてバターが高価だった日本では、その代用品である「人造バター」が庶民の間に大いに流通した。不二家がクリスマスセールをスタートした翌年には「マーガリン」と呼称を変え、本家に迫る勢いでシェアを広げていた。
そんなバター入手が困難な時代、いくらクリスマスで飛ぶように売れるからといって、バタークリームケーキビジネスにそれほど旨味があるとは思えない。大衆に手が届く価格を維持する以上、原価が上がれば当然、儲(もう)けは少なくなるからだ。その証に、この時代は高価なバターの代わりにショートニングや粉砂糖を用いた「偽バターケーキ」が巷にあふれていた。
高価なバターより、安い生乳からつくられる生クリームを使うケーキのほうが安上がりなのは言うまでもない。現代にも通じるバター不足による価格高騰によって、クリスマスケーキは生クリーム仕様へ移行していった可能性が高いのだ。
もちろん、単なるコストだけではなく、生クリームに「商機」があったということも言える。ちょうど不二家が「クリスマスバターケーキ」を売り出したのと時を同じくして、日本人が度肝を抜いた斬新なスイーツが日本に上陸をしている。「ソフトクリーム」だ。
●日本は「ソフトクリームブーム」に
日本ソフトクリーム協議会には以下のような歴史が語られている。
ソフトクリームが日本に登場したのは1951年。明治神宮で開かれた進駐軍主催のカーニバルの模擬店で、初めてコーンスカップに盛られたソフトクリームが売られました。一般の日本人が、最初にソフトクリームを食べ、フリーザーの運転を見たのがこの時だったのです。
アイスクリームはすでに大正時代からあったが、この「柔らかいクリーム」を用いたアイスの出現が、日本人にカルチャーショックを与えたのは容易に想像できる。事実、この明治神宮ショック以降、有名店がこぞってソフトクリームを模倣していく。その中で「国産ソフトクリーム第1号」をうたって販売したのが、不二家だったのだ。
この後、日本は「第一次ソフトクリームブーム」と呼ばれる大ブームが押し寄せ、老若男女問わず米国が持ち込んだスイーツの虜になる。不二家もソフトクリーム特需で大いに潤った。このような「柔らかいクリーム」のアイスが大ブレイクするなか、カチカチのバターケーキをつくる旨味が少なくなっていけば、「柔らかいクリーム」を用いたケーキへ方針転換するのは、自然の流れといえいよう。
そのような「供給者」の目線にたってみると、今のクリスマスケーキにとって欠かすことのできない「苺」もまったく異なる解釈となる。
供給者側の事情が複雑にからみあう
先ほど述べたクリスマスセールで売られた不二家のケーキをはじめ、1950年代のクリスマスケーキは、栗やチェリーなどがトッピングされるのが主流だった。
それがなぜ苺にとって変わったのかというと、「赤と白でクリスマスっぽい」からではない。流通側のプッシュがあったのだ。
実は1959年ごろから「ハウス栽培」が普及し始めた。これによって、夏の果物で傷みやすい苺がクリスマスシーズンでも流通することとなり、生産者側が「冬にも苺を食べよう」という一大キャンペーンを展開していく。クリスマスケーキ業界は、それにまんまと相乗りさせてもらったというわけだ。
つまり、「苺と生クリームがのっかったデコレーションケーキ」というのは、クリスマスケーキの仕掛人である不二家が生み出したわけでもなく、さまざまな供給者側の大人の事情が複雑にからみあって生み出されたものなのだ。
実はこれと全く同じ構造が、「土用丑の日」だ。夏の暑い盛りにうなぎを食べると精がつくという俗説は、夏に客足が少ない鰻屋の相談にのった、平賀源内が考案したという説が有力だ。
そう聞くと、「江戸時代の鰻屋にも販売戦略があったんだ」なんて感心する方も多いが、実はこれも不二家と同様で、製造コストや生産者の都合によるところが大きい。当時、鰻漁のシーズンは5月〜12月だったが、なかでも水量が増える夏によく獲れた。当然、鰻屋も夏に仕入れが多かった。
鰻は夏よりも冬のほうが味は格段に良いのだが、生産者と供給者の都合を優先して、夏のプロモーションを仕掛ける必要があったというわけだ。
最初は「供給者側の都合」で食べさせられていたモノが、不思議なもので長い時間慣らされているうちにいつの間にやら、「やっぱクリスマスにはこれがないとね」となる。
われわれの食卓には、「大人の事情」で「食べさせられているモノ」があふれているのだ。
(窪田順生)