1000年以上の伝統を誇る将棋界には、様々なしきたりがある。対局の際、どちらが上座に着くかといった席次もその一つ。しかし1994年、将棋界の暗黙の掟をそしらぬ顔で破った男が現れた。それが不世出の天才棋士、羽生善治四冠である。当時、「将棋世界」編集長だった作家・大崎善生氏が“事件”を振り返る。
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将棋は勝負事なのであるが、と同時に伝統文化の一面も持つ。そういう意味もあって将棋にはゲームとしてのルール以外に、様々なマナーがある。作法というべきなのかもしれない。
対局者には上位者と下位者があって、上位者が床の間を背にして上座に座り、駒箱を開け、玉(ぎょく)と王のうちの王の駒を取る。記録係は上位者の歩を5枚とって宙に投げ振り駒をする。今は、上は竜王と名人からはじまって、すべての棋士に序列がつけられている。
しかし、そこは人間と人間のこと。朝、日本将棋連盟の対局室を覗くと「どうぞ、どうぞ」と上座を譲り合う光景がよく見られる。たまたま序列は私が上だが実績もキャリアもすべて上の先輩であるあなたの上座に座るなんて滅相もありませんというわけだ。
このタイプの棋士は朝一番に対局室に入り、いち早く下座について先輩が現れるのをじっと待つのである。そして恒例行事ともいえる「どうぞ、どうぞ先輩、そちらの席へ」がはじまるのである。
今から約20年前。将棋界は異様な事態にちょっとした騒動となった。当時23歳にしてすでに4冠を手にしていた、羽生善治が名人戦挑戦者決定リーグでもあるA級順位戦に初参加し、いよいよ名人挑戦権をかけて残り2局となっていた。残す相手は中原誠前名人と谷川浩司王将。リーグ初参加の羽生は順位が9位。谷川は4位、中原は1位。しかも中原は永世名人有資格者でもある。
対局室に早くに現れた羽生はほとんど直線的に何も躊躇(ためら)うこともなく床の間を背に着席した。そして瞑目(めいもく)し早くも戦闘態勢に入ろうとしていた。ややあって現れた中原は対局室に入るなり目を丸くした。
自分が座るべき場所に若僧が座っている。このとき中原は46歳。羽生は確かに4冠王ではあるが、しかし先輩であり永世名人でもあり、順位も上であり、なにをしても中原が上座であることは明白。
しかし中原は何も言わずに「フフッ」と笑って下座に着いたのだという。序列を破られてもなお動じない、感情も乱さない大名人の風格は流石である。将棋は羽生が勝つ。
将棋界は騒然となった。将棋界を席巻しつつある若き4冠王とはいえ、これはあまりにも非礼ではないか。
続けて谷川戦。これも正確には順位が上の谷川が上座。しかし先に現れた羽生は今度も平然と上座を陣取る。将棋は羽生が勝ち、名人挑戦権の行方は、プレイオフとなり再び谷川と関西将棋会館で相まみえることとなる。
対局15分前に和服に身を包み現れた羽生は、またしても上座に着く。後から現れた谷川は口にこそしなかったが表情は硬く怒りを顕わにしていた。
「私の座る場所がない」
ちょうどこの10年前に名人位についたばかりの谷川が対局室に行くと自分の座るべきはずの上座にすでに先輩棋士(加藤一二三〈ひふみ〉九段)が座っており、驚いた様子をこう表現したことがあった。それと同じことが名人戦挑戦者決定戦で起こったのである。
そしてこの対局を制した羽生が初の名人挑戦権をつかみ、米長(よねなが)邦雄名人を下して初めての名人位に就く。
これが羽生善治3連続上座事件の顛末。将棋界は騒然となった。棋士道に反するという棋士、もっと謙虚になるべきという声、生意気だという将棋ファン。
しかし羽生はとにかく目の前の勝負を勝ち抜いていくという強い意志で前へ進み、白星という武器でそれらを封じ込めていったのである。ある意味で凝り固まっていた将棋界の風習や常識を羽生は白星を積み重ねることでことごとく塗り替えていったのだ。それは音のしない革命を見ているようだった。
羽生善治という青年は、将棋はジャストゲームと言い切ったように、なるべく無駄なものを排除し、定跡の先入観を捨て、科学のように棋理を追い詰めようとした。礼儀は正しいし、性格は極めて素直で明るい。
そんな彼を目の当たりにしていた当時将棋世界編集部に勤めていた私は、3連続上座には何ともいえない違和感に囚われていた。羽生の日頃の言動からして上座も下座もまったく拘泥(こうでい)していないはずなのである。それは盤外のことだからだ。
ほどなくして将棋雑誌に羽生自身の謝罪文が載り一件落着となる。4冠を保持していたことで3局とも全部自分が上座だと思い込んでいた、順位戦だけに特別な決まりがあることは知らなかったというものであった。
日本らしいやや曖昧な決まりが混乱のもととなった。しかし羽生自身も、はっきりと順番を決めるのではなく、融通があるほうが好きだと言っている。また上座に先に、中原、谷川が来て座っていたら、の問いに「まったく何とも思いませんでした」との言葉を残している。
※SAPIO2016年1月号