江口克彦参院議員が12月17日、次世代の党に離党届を出した。次世代の党は21日に党名を「日本のこころを大切にする党」に変更したが、江口氏はこれに強く反対していた。理由は党名が長すぎること、さらにその内容がいかにも極右的であることだ。
江口氏は党名変更自体には反対していたわけではない。ただ次期参院選を7カ月後に控えた年末年始に党名を変更するのは、コストがかかりすぎリスクが大きすぎるという。
「党本部のゴム印変更、新しいロゴの作成料や旗の新調、さらに街宣車の外装変更など、党名を変更するにはざっと見積もって6000万円ほどの経費がかかる。それならば、党名変更などはやめて、その分を地方で地道にがんばっている仲間に支給したほうがいい」(江口氏)
江口氏は12月14日から16日まで、懇意にしている李登輝元台湾総統の孫娘の結婚式に参列するために台北へ行く予定だったが、すでに腹をくくっていたのだろう。その直前に筆者にこう語っている。
党名変更に積極的なのは、代表の中山恭子参院議員。しかし、江口氏が強く反対したこと、さらに党員や支持者の多くが反対を表明したことにより、11月にはいったんひっこめている。
党本部も市場調査を行い、党名変更が参院選までに浸透しないこと、党名変更がかえってマイナスになるとのレポートを作成し、中山氏に報告している。それを読んだ中山氏は機嫌を損ねた表情を見せたが、やむを得ないとしぶしぶ党名変更断念に納得したという。
●理解できない方向
ならば、どうして年末になって再び党名変更案が復活したのか。
次世代の党は、これまでにもしばしば理解できない方向に舵を切ることがあった。
たとえば昨年12月の衆院選だ。この時、同党は田母神俊雄氏を東京12区に擁立した。同選挙区は公明党の太田昭宏前国交大臣の地盤である。田母神氏は同年2月の東京都知事選で61万票を獲得したので、次世代の党はその「人気」を当てにした。
しかし地方の選挙と国政選挙では、票の出方が異なると考えるのが普通だ。しかも自民党にすり寄りながら、激しく公明党批判を繰り広げたという戦法を採ったために、結果的に得票数は4万票に満たず最下位で落選。共産党の池内沙織氏にまでも負けてしまった。その後、田母神氏には政治資金疑惑が発覚したため、今後は政治の表舞台に出てくるのは難しいと見られている。
政治的方向性も理解不能だった。次世代の党は自らを「自民党の補完勢力」として位置づけているが、自民党の右派よりも右の政治スタンスをとる集団を、果たして自民党が求めているのだろうか。そもそも明治憲法の復活を提唱する政党を、多くの国民が支持するというのだろうか。さらに、次世代の党から実際の国民の生活について具体的な提案が行われたという記憶はない。
昨年の衆院選で次世代の党の公認候補の応援に行った江口氏が、「子育てや家計の問題について話せば有権者は足を止めて聞こうとするのに、候補者は尖閣諸島が中国に狙われていることなどばかり主張する。確かに外交防衛は大事な問題だが、それだけでは有権者の関心を得られない」と嘆いていたことを思い出す。
江口氏の離党会見は、17日夕方に参院議員会館1階の談話室で行われた。終わってロビーに出ると、中山氏がエレベーターを降りて車に乗ろうと出口に向かっていた。やや下を向いていたが、心なしか険しい表情をしているように見えた。その中山氏が車に乗り込む姿を眺めていると、江口氏が笑顔で談話室から出てきた。もう少しではち合わせになるところだったが、かろうじてそれは避けられた。この時の2人の表情の明暗が見事に対照的で、それぞれが目指すところは二度と交わることがないと確信した。
21日の党名変更の記者会見で、中山氏はにこやかに「日本人が誰でも持っている精神が欠けつつある」と党名に「日本のこころ」を入れた理由について語っている。だがそこには、党を離れたかつての同志への思いやりは見られなかった。