まるでボーボボ? 「鼻毛」で国を守った殿様がいたってほんと? | ニコニコニュース

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江戸時代初期、各地の大名たちは戦々恐々としていました。なぜなら、徳川幕府は些細なことでも疑わしければ、改易(かいえき)をおこなっては石高を減らし、さらには取り潰してしまうことも稀(まれ)ではなかったからです。

なかでも、加賀藩の前田家は、前政権である秀吉と深く関わっていたため、当然のように目を付けられていました。これを乗り切るため、前田家はさまざまな策を講じていったのです。

とくに3代目である前田利常は、鼻毛を伸ばしておバカを演じ、徳川幕府の目をあざむいては藩を守り抜いたのでした。

■利常がバカ殿になった理由

関ヶ原の戦いが始まる少し前、徳川家康に唯一対抗できる力を持っていた前田家初代当主・前田利家が亡くなり、長男の利長がその跡を継ぎました。すると、すかさず家康は利長の謀反(むほん)を言い立て、加賀征伐を企てます。これを収めるために、利長の母「まつ」を人質に差し出し、家康の孫である珠姫を前田家でめとる約束をしたのです。これによって、完全に前田は徳川の軍門に降り、関ヶ原でも徳川派として参戦することになったのでした。

この関ヶ原のあと、前田家へ所領が加増され、晴れて100万石の大名となります。とはいえ、まだまだ安心はできません。徳川の前田への警戒がゆるむことはなかったのです。

利長が亡くなると、年の離れた弟である利常が家督を相続します。するとまた、謀反の疑いをかけられてしまうのです。徳川二代将軍の秀忠が病床についたころ、利常は火災にあった金沢城の垣根の修理や、船舶の購入などをおこないました。それらが軍備の増強をしているのではないか、と目を付けられてしまったのです。すぐさま利常は否定するために江戸へ向かいましたが、当時の新将軍・家光に会うことはできませんでした。しかし、家老が老中に必死に弁明することで、なんとか疑いを晴らすことはできたのです。

このように、何かをするたびに疑われるようでは、らちが明きません。そこで、利常は自身の息子と家光の養女・大姫を結婚させ、さらに娘を家光の養女にし、徳川との固い血縁を結びました。

そして利常自身は国には帰らず、江戸にて鼻毛を伸ばし、毎日のように宴会騒ぎを繰り広げるという、信じられないような行動に出たのです。幕府は、あんなバカ殿の国など恐れるに足りないと、油断したのか、それともリアルにヤバいやつだと思ったのか……とにかく、疑いをかけられることはなくなりました。ただ、武士にとって侮辱は死よりも屈辱だと感じる時代です。なかなかできることではありません。

こうして加賀藩の100万石は守られていったのでした。

■財力はすべて文化学問へ

さらに利常は、この膨大な石高による財力を、武力には使わず、芸術や工芸、学問へ注いだのです。

現代にも受け継がれている、加賀の伝統文化や芸術作品の基礎がここで生まれたのです。他にも、建造物・造園などの土木工事も行われ、江戸辰口や本郷上屋敷などの造営、金沢城内玉泉院丸の庭園、小松城内葭島の大亭花園の築造など、多くのものが造られました。

藩政も怠ることなく、不作年の困窮救済と豊凶作に左右されない租税の仕組みである改作法を実施し、安定した財政を行っていました。領民も安心した生活を送れていたことでしょう。

■まとめ

 ・関ヶ原の戦い以降、徳川幕府は反乱を恐れ、なにかにつけて大名を疑っていた

 ・「利家とまつ」で知られる加賀藩二代藩主・前田利常もそのひとり

 ・利常は「鼻毛」を伸ばして「バカ殿」を演じ、幕府を油断させた

 ・加賀100万石の「財力」は、芸術や学問の発展に注がれた

利常の息子である光高が、家康をまつる東照宮を場内に建てると、「いつか幕府の天下が終わったらどうするのだ。そういうものは、場外の遠くにまつっておくのが良い」と話したといいます。このエピソードからも、利常が決してバカ殿ではなく、視野が広い人物であったことがわかります。

すべては加賀藩のためとはいえ、彼の知略はすさまじいものだったように思えるのです。

(沼田 有希/ガリレオワークス)