江戸時代の出版プロデューサーが吉原に入り浸っていた理由 | ニコニコニュース

『蔦屋』(学研マーケティング刊)
新刊JPニュース

 「そっちの方がおもしろいからに決まっているでしょう?」
 おもしろいモノをつくり、世に送り出す。現代でいえば出版プロデューサーと呼べる仕事をしていた人が江戸時代にいた。その人物の名前は、蔦屋重三郎。喜多川歌麿、東洲斎写楽の仕掛け人であり、恋川春町、山東京伝、大田南畝、葛飾北斎といった名立たる浮世絵師、戯作者の作品を世に送り出したのがこの重三郎だ。

 そんな蔦屋重三郎を描いた小説が『蔦屋』(谷津矢車/著、学研マーケティング/刊)である。著者の谷津矢車氏は、第18回歴史群像大賞で優秀賞を受賞し、2013年、『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。歴史小説を中心に執筆、演劇の原案なども手掛けている。本作は2014年に出版された2作目となる。

 重三郎は吉原に生まれ、吉原の中に耕書堂という本屋を開き、『吉原細見』という吉原のガイドブック的な本を出版、販売する。蔦屋版のそれの人気は群を抜き、蔦屋の独占稼業になっていた。これを買えばそれだけで通ぶれる、という本だった。


 「いつかあたしァ、江戸中を吉原に染めてやりますよ」と言う重三郎は当時、出版業界の中心地だった日本橋に進出することを考えていた。そこで出会うのが、物語のもう1人の重要人物である丸屋小兵衛だ。日本橋で豊仙堂という地本問屋をやっていた小兵衛は、本屋業界にこの人ありとまで謳われた人物である。そんな彼が、商いに失敗し、店を閉めて隠居をしようとしていたところに、重三郎が現れる。「一緒に世間をひっくり返してやろうじゃないですか」と言う重三郎と小兵衛は組むことになる。そして、日本橋の老舗地本問屋・豊仙堂を買い取り、吉原の外に進出する。
 重三郎は小兵衛を連れて、連日の吉原通いで乱痴気騒ぎを繰り広げる。そこでバカ騒ぎをしていた仲間たちが、朋誠堂喜三二、宿屋飯盛、大田南畝といったそうそうたる面々だった。つまり、彼は吉原でネットワーク作りをしていたのだ。そして、重三郎は彼らと共に、江戸の出版界に大ブームを巻き起こしていく。

 しかし、天明・寛政という時代。松平定信による寛政の改革が始まると、出版の規制も厳しくなり、自由に作品が出せなくなるという時代になっていく。


 逆境の時代でも、信念を持ち、知恵と人脈を使って重三郎は挑んでいく。それは本作の重三郎の言葉に表れている。

「世間の興味には波がある。その波はいつやってくるかわからないし自分から作ることもできない。でも、その波に乗って進んでいけば、自分以上のことができる」(P92より)

「新しいものっていうのは、往々にして頭の固い人から見ればヘンテコで洗練されていないものだ。もちろん、そういうものを先物買いしてくれるお客さんってェのはいるにはいるけども、それじゃあ大売れとはいかない。十歩先に行ったものじゃあ新しすぎる。かといって、一歩二歩先くらいじゃあ誰も驚かない。いうなれば、五歩先くらい先を走るものを作りたいね」(P155より)

「あたしにとって一番の財産は、いろんな人たちと結んできた縁です。あたしにァ何の力もない。でも、その縁をこねくり回して引っ張ってやって、江戸に風穴を空けてきた」(P319)

 時代は違えど、重三郎モノづくりの姿勢は現代に通じるところが多くある。現在のテレビ・出版業界も少なからず表現の規制はあり、ひと昔前からすると厳しくなってきている。もし、重三郎が現代に生きていたら、そんな時代の中でも、世間や風評を皮肉ったりしながら、おもしろいモノをつくりだしていくのだろう。


 江戸時代に数々の大ヒット作を生み出した仕掛け人の生涯を読んでみてはどうだろう。
(新刊JP編集部)