2015年に「南京事件」がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されたことで、違和感を持った日本人も多かった。「政治的にユネスコの世界遺産を利用」、「諸説があるのに、中国の一方的な主張をそのまま認めた」といった反発が出た。
ユネスコがさまざまな形で「世界遺産」を定めていること自体は評価したい。人類のさまざまな「遺産」を世界に改めて紹介することは、保護や継承にも役立つからだ。しかしユネスコは、申請する側の「誠意」をあまりにも信じすぎ、頼りすぎていないのか。きちんと審査しているのか。こんな疑問を持たざるをえない例を、もうひとつご紹介しよう。
■ 中国が自国から消えた「ホーミー」を世界遺産に申請、ユネスコは認めた
中国が申請し、2009年に「モンゴル民族の伝統的な歌唱技術」として「無形文化遺産」に登録された「ホーミー(ホーメイ、コーメイ)」だ。「ホーミー」とは声帯で一定の音高のうなり声を出しながら、口腔などで特定の倍音を響かせる技術、つまり1人で同時に2つの音を出す1種の歌唱法だ。
なお、ここからは文章の内容上、やや細かい論が続くが、ご容赦願いたい。
まず、モンゴル民族は独立国であるモンゴル国だけでなく、ロシアのシベリア地域や中国にも広く居住している。 中国国内のモンゴル民族の人口は、数え方にやや問題はあるが、モンゴル国よりも多いぐらいだ。したがって、中国がモンゴル民族の文化について登録申請すること自体は、さほど問題ないと考える。
問題は、「中国ではホーミーの技法が1990年代初頭に途絶えてしまっていた」ことだ。
しかしユネスコが公開している「無形文化遺産」のリストには、「ホーミーは現在も、いくつかの国のモンゴル人コミュニティーで、特に中国北部の内モンゴル、モンゴル国西部、そしてロシアのトゥバ共和国で実践されている」と書かれている。
■ 内モンゴルの研究者も「地元」ではホーミーの伝承を確認できず
筆者は1980年代後半から90年代初頭にかけて、留学生として中国に滞在していた。その際に、大変に世話になった内モンゴルの音楽家・モンゴル音楽研究家である先生に、「ホーミーの技法は内モンゴルにはなかったが、新疆ウイグル自治区のモンゴル族には伝わっている。しかし私が現地に行った時点で伝承者は2人しかおらず、現在までに1人は亡くなった」と聞いた。
その先生の名は、ご本人に影響があるといけないので、ここでは伏せておく。ただし、すでに定年で退職したが、内モンゴルの音楽界で公的な要職も務めたことがある人物であり、関連する論文も多く発表していることを書き添えておく。
■ 別の呼称で新疆ウイグルには存在したが・・・・・・
さて、その先生が力を入れてきた研究対象に、モンゴル伝統音楽の「チョール」という概念がある。現象あるいは事物としてのチョールはさまざまで、内モンゴル東部には、馬頭琴と同系統で調弦や奏法が異なる「チョール」という擦弦楽器がある。内モンゴル中部には「チョーリン・ドー(チョールの歌)」と呼ばれる合唱がある。
さらに、新疆ウイグルのモンゴル人およびモンゴル国西部では「モドゥン・チョール(木のチョール)」と呼ばれる木製の管楽器が伝わっていた。さらに、新疆ウイグルではホーミーと同様の歌唱法が「ホーロイン・チョール(喉のチョール)」と呼ばれて伝わっていた。
いずれの「チョール」も、同じ音高の低音に、高い音高での旋律を重ねる点で同様だ。擦弦楽器の「チョール」は低弦を開放弦として鳴らし、高い方の弦で旋律を奏でて重ねる奏法を多用する。「チョーリン・ドー」では「合唱者」が低音の「うなり声」を出し、そのうえで1人が高い音で旋律を独唱する。
「モドゥン・チョール」はアラブ音楽の「ナイ(ネイ)」と同様の構造と奏法の笛の1種だが、演奏者は低音のうなり声を発しながら、笛の音で旋律を奏でる。なお「モドゥン・チョール」と同様の楽器と奏法は、ヴォルガ川近くに住むバシキールという民族も伝えている。
さらに言えば、モンゴル民族のうち西部部族が伝えてきた2弦の撥弦楽器「トプショール」について、筆者は伝承者から「この楽器はトプショールまたは、トンショールという。『トプ』とか『トン』は弦をはじいた時の音。『ショール』は『チョール』と同じ」と聞いた。
ちなみに、モンゴル語では「チュ(ch)」の音と「シュ(sh)」の音が交代することがときおりある。楽器呼称の起源が「トプ(トン)」+「ショール(=チョール)」であるかどうかは確認できていないが、少なくとも伝承者自らはそのように認識していた。
■ 新疆ウイグルで最後の伝承者が他界、「ホーミー」の伝統は絶えた
さて、ここまででお分かりになったと思うが、中国領内に住むモンゴル族のごく一部は「ホーミーの技法」を伝えていたが、「ホーミー」という「呼称」は用いられていなかった。あくまでも「チョール」であり、そして他の「チョール」と区別する場合には「ホーロイン・チョール」と呼んでいた。
私も1990年に先生から教わった新疆ウイグルのアルタイ市郊外のハンダガードという村を訪れて、たった1人の「ホーロイン・チョール(ホーミー)」伝承者に技を披露してもらい、録音もした。ところが、その伝承者は92年までに亡くなったという。つまり中国領内で「ホーミーの伝統は途絶えた」ことになる。
■ 内モンゴルの音楽家はウランバートルに行きホーミーを「学習」
ここで問題になるのは、中国がなぜ「ホーミー」を自国の伝承として登録を申請したということだ。
モンゴル国で、ホーミー発祥の地は同国西部の「コブト(ホブト)」とされている。つまり、同国でも西部地域特有の伝統だった。しかしモンゴル政府は早い時期からホーミーを重要な伝統と認識し、同国西部とは別の文化圏に属する首都のウランバートルでもホーミーの演者を育成した。
ホーミーは国外の専門家や民族音楽ファンの間で有名になった。日本では1978年に開催された「アジア伝統芸能の交流(ATPA)」でモンゴル人演者が「ホーミー」を披露し、80年に刊行された同活動の英文報告書にもホーミーについての研究成果が載った。レコードやのちにはCDなども発売されるようになった。
そして、内モンゴルを訪れる外国の音楽研究者や民族音楽ファンが、ほとんど口をそろえるようにして「ここにはホーミーは伝わっていないのか」と尋ねるようになった。私が内モンゴルを初めて訪れたのは1984年だが、その時には「内モンゴルにはない」とあっさりと言われた。
モンゴル国は1992年まで「モンゴル人民共和国」という名の社会主義国で、旧ソ連時代にはソ連の忠実な衛星国だった。中ソ対立のために、中国領内のモンゴル族と、モンゴル国のモンゴル人の交流は厳しく制限されていた。
しかし中ソが和解に向かったことで、国境の両側のモンゴル人の交流は活発になった。内モンゴルの音楽家が1990年代半ばごろから相次いでウランバートルに行き「ホーミーの歌唱法」を学習した。そして内モンゴルに戻り、ステージなどで演じるようになった。
それまでに知られていなかった歌唱法は好奇心と驚きをもって歓迎された。そして内モンゴルの演者がホーミーを「モンゴル民族の古い伝統」と紹介することが一般的になった。
内モンゴルでホーミーの演者が登場し、盛んになったのは事実だが、あくまでも他国からの「輸入品」だ。伝承としては、もともと存在しなかった。そのことを熟知する専門家もいたが、中国はユネスコに「無形文化遺産」として申請した。そして認められた。これが「ホーミー登録」の経緯である。
挑発的な言い方かもしれないが「申請する方もする方、認める方も認める方」というのが私の率直な感想だ。
なお、中国国内ではモンゴル語を記述する際に伝統的なモンゴル文字を、モンゴル国では一般的にロシア文字(キリル文字)を使っている。英文表記する際にはいずれもローマ字に転写するが、方式には異なる部分がある。中国は「ホーミー」を「世界記憶遺産」に登録する際、自国式のローマ字転写ではなく、「モンゴル国式」の「khoomei」を用いた。
■ ユネスコのリストは「トルコ系民族」を「モンゴル民族」と記載
ホーミーについてのユネスコのリストには、それ以外にも問題がある。ホーミーの伝承地のひとつとされる「トゥバ共和国」についてだ。まず、トゥバで歌唱法としての「ホーミー」が伝わっていることは間違いない。モンゴル国以上に盛んなほどだ。
しかしトゥバ民族は通常、「トルコ系民族(チュルク語系言語を母語とする民族)」に分類される。モンゴル系民族とトルコ系民族は極めて近い関係にあり、厳密な線引きはあまり意味がないとの説もあるが、ユネスコのリストは「文化は極めてモンゴルに近いが民族としてはトルコ系」とされる学界での主流の認識を無視し、あっさりと「モンゴル人コミュニティー」のひとつと紹介した。
民族学の専門家が目を通したら、そのまま見過ごすとは思えない。つまり、中国側が提出した資料をそのまま使ったと考えられる。このあたりからも、「ユネスコはきちんと審査しているのか」との疑問を持たざるをえない。
なお、「チョール」はモンゴル国では歴史的な発音の変化の関係で「ツォール」と呼ばれる。また、モンゴル国で「ツォール」とは一般的に管楽器、つまり中国側では「木のチョール」と認識されていた楽器を指す。モンゴル国はユネスコに対して管楽器の「ツォール」を「無形文化遺産」とするよう申請し、認められた(2009年)。
また、中国でも古い時代にはホーミーの歌唱法が存在したと思われる。西晋時代の成公綏(231-273年)が記した「嘯賦」、唐代に書かれたとされる「嘯旨」などの文献があるからだ。現在の中国語では「嘯」は「口笛」のようなものと理解できるが、古い「嘯(長嘯)」の記録には「喉で濁った音。歯で清い音」を出すなどと書かれている場合がある。
1990年ごろまでの中国で、ホーミーを知る研究者はほとんどいなかった。そして「嘯賦」や「嘯旨」に記載のある「嘯」については「謎」とされていた。
筆者は1989年に中国音楽史を専門とする中央音楽学院(北京)の伊鴻書教授に、ホーミーの録音を聴いていただいたところ「断定はできないが、嘯がホーミーである可能性はある。嘯の記録がある時代は、中国と西北民族の交流が活発だった時期でもある」との感想をいただいた。
2009年に「ホーミー」がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されたころからは、中国でも「嘯」とホーミーの関係を論じる文章が発表されるようになった。
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◆解説◆