元プロ野球選手の清原和博容疑者が覚醒剤所持の疑いで逮捕されました。球界の番長と呼ばれ、引退後もテレビ番組で独特の存在感を見せていました。一方で、2014年には離婚が明らかになるなど、私生活をめぐってはたびたび、週刊誌に取り上げられる存在でした。いったい清原容疑者に何が起きたのか? これまでの発言を振り返ります。
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巨人に指名されず「いまは何もいえません」
甲子園で通算13本塁打を放ち、プロ野球西武にドラフト1位で入団します。巨人入りを望んでいましたが、巨人が指名したのは同じPL学園のチームメイト桑田真澄さんでした。
1985年11月20日の記者会見で悔し涙を見せ、入団するかとの質問に「いまは何もいえません。両親、監督、部長、校長さんらといろいろ相談して決めたい」と答えていました。
記録塗り替え新人王「この成績では満足してくれない」
1986年には、パ・リーグの新人王に輝きます。打率3割4厘、31本塁打。高卒新人の打撃記録をすべて塗りかえました。
「1年目としては自分でも素晴らしい成績だと思う。でも来年からは、この成績ではファンの方も満足してくれないでしょう」
すでに、スター選手としての自覚をもった発言を残しています。
「『巨人』を倒して日本一となるのが目標でした」
1987年11月1日、西武球場で行われた日本シリーズ第6戦で泣き出します。
「『巨人』を倒して日本一となるのが、プロ入りの目標でした」
9回表、巨人2死の直後、一塁の守備についていた時、突然、涙があふれ、肩をふるわせます。西武優勝の瞬間、彼の涙は、号泣にかわっていました。
背番号3「巨人ではとんでもない話です」
1996年12月7日、フリーエージェント(FA)宣言して西武から巨人に移籍します。年俸は、野球協約で旧年俸の1.5倍と定められた最高限度額の3億4500万円(推定)でした。
背番号については、長嶋監督が現役時代につけ、巨人の永久欠番である「3」を「譲ってもいい」と話していましたが、記者会見で「ほかのチームならともかく、巨人ではとんでもない話です」と語り、両親と相談して「5」にしたと明かしました。
2千本安打「土砂降りや嵐の日もあったけど」
2004年6月4日、プロ19年目で2千本安打達成しました。
「土砂降りや嵐の日もあったけど、野球を続けてよかったと実感しました」
2千本が近づくにつれ、インタビューで「声援だけが支え」「枯れかかった自分に水を与えてくれる」。ファンを味方につけ、自分を奮い立たせた末の記録達成でした。
オリ移籍「大阪で精いっぱいプレーしたい」
2005年12月、オリックスへの移籍を発表します。大阪からプロに巣立って20年ぶりに、初めて在阪球団でのプレーでした。
「大阪で精いっぱいプレーしたい」と決意を述べていました。
「23年間、応援どうもありがとうございました」
2008年10月、ついに引退します。
「11年間、僕を育ててくれた西武ライオンズ。渡辺監督や選手の皆さんに胴上げして頂き、この場を借りて感謝を申し上げます」と西武時代の思い出を語りました。
巨人については「自分の夢だったジャイアンツで9年間お世話になりました。つらいこと、苦しいことがたくさんありましたが、一番の心の支えは球場でのファンの皆さんの温かい声援と拍手でした。9年間どうもありがとうございました」と述べました。
また、オリックス時代を振り返り「オリックスに入団してからは思うように活躍できず、本当に申し訳ありませんでした。今年はチームがクライマックスシリーズに進みます。僕は出場できませんが、オリックスの若い選手が必ずやってくれると信じています」とエールを贈りました。