わが子が小学校に入ると、やがてはPTAの誘いがかかるかもしれない。毎年、年明け直後から2月ごろにかけての時期と、新年度が始まった直後が、役員・委員選びの最盛期になる。『PTA、やらなきゃダメですか?(小学館新書)』(山本浩資/小学館)によると、保護者たちの一部は誘いの声がかかるのを恐れ、選考(推薦)委員たちを「PTAハンター」、オファーの手紙を「赤紙」「召集令状」などと呼んで忌み嫌っているらしい。
たびたび開かれる会議は前例主義で淡々と進み、おもしろみはほとんどない。行事の委員になれば、子どもを家で留守番させてまでも出ずっぱり。避けられるならば避けたいPTAだが、「入学すれば自動的に加入するもの」「在学中に一度は委員になるのが暗黙のルール」であるため、しぶしぶ承諾する人が少なくない。しかし、本書は、PTAが「全員加入」でも「義務」でもなく、「強制」されるいわれもないと断言する。PTAは、そもそも任意のボランティア団体なのである。
戦後、GHQの指導のもとで設立が奨励されたPTAは、「父母と教員とが協力して、家庭と学校と社会における児童・青少年の幸福な成長をはかること」を目的として、長らく時間に比較的ゆとりのある専業主婦や自営業者が中心となって運営されてきた。しかし、時代が流れ、共働き世帯が増え、本書のアンケートによるとフルタイム勤務・パート勤務・専業主婦の割合はほぼ3分の1ずつに。かつての主な担い手が激減した結果、なり手が集めにくくなり、「義務参加の暗黙ルール」という形で全員参加の強制圧力が強まったと分析している。同時に、母親間では「働く母親 vs. 専業主婦」の構図が生まれ、不平等感が広がる。無理にやらされているという強制感が、会議をできるだけ長引かせないように、「沈黙の」「台本どおりの」「前例主義的な」、形式ばかりの時間にしている、というのだ。
「PTAは誰のためにあるのか」と問うと、多くの人は「子どものため」と答えるかもしれない。しかし、本書は「子どもも、大人も、先生も、地域の人たちも…学校に関わるすべての人のため」ではないかと問う。「子どものため」という意識が強すぎると、「親が多少の犠牲を強いられても、子どものためだから仕方がない」という自己犠牲主義的な論理が働き、PTAの本来の意義を損なわせる。親が耐え忍ぶ姿を目の当たりにする子どもに、幸福な成長が望めるだろうか。
組織や制度は「継続」だけを優先すると、疲労を起こし、徐々に劣化していく。本書では、いきなり「PTA会長」に抜擢された著者が、実際にPTAを完全ボランティア制に変え、必要な活動ごとに参加者を募る方式にした成功例を丁寧に紹介している。必要に応じて「改革」していくことが、これからのPTAに求められるのかもしれない。
巻末では、今後の日本が迎える超少子高齢社会において、本書の事例のような「循環型ボランティア」が地域社会で根付くことを願っている。
文=ルートつつみ