取材クルーが訪れたのは、東京・世田谷区にある小笠原流礼法の教場。弓道場を見下ろす2階の広大な畳の間で、まず同行した編集者の立ち姿を見てもらった。
三十一世宗家・小笠原清忠氏がいくつか指示を与えると、たちまち印象が一変。どことなく頼りなさげだった立ち姿に、凛とした緊張感が備わったのだ。
「一時的に姿勢を正すことは、誰にでもできます。しかし、それを『常に保つ』ことが、現代人にはとても難しいんです」
小笠原流礼法は鎌倉時代に始まり、850年の歴史を持つ武家の礼法。一子相伝で受け継がれてきたのは「実用・省略・美」。すなわち、日常の行動において役に立ち、無駄がなく、所作が美しいことをその神髄とする。
「礼法とは『身を修める』こと。身を修めるとは『心正しく、体直(たいなお)くする』ことです」
心正しくとは、文字通り常に心を正しく保つこと。体直くするとは、常に体をまっすぐにすること。
小笠原流礼法では、立つ、歩く、座るという日常の姿勢・動作が最も重要な作法の基本とされているが、そこで重視されるのが、この「体直く」することなのである。
では、なぜ現代人に「体直く」が難しいのだろう。宗家は、現代人の多くに常に正しい姿勢を保つ習慣がなく、そのため姿勢を保つのに必要な筋力が、日常的に鍛えられていないからだという。
「礼法は、諸大名や上級武士たちに、殿中でのふるまいを指導するものですが、その実際は日常生活の中での心身の鍛錬なのです」
小笠原流礼法に則った、立つ、歩く、座るには、どんな鍛練が潜んでいるのだろう。
「体直く」を立つ姿勢で見てみよう。礼法では両足を平行にそろえて踏む。すると、重心が前寄りになり、わずかに内腿に力が入る。
「立つときに、つま先を左右に開くのが今は一般的ですが、それだと重心が踵にかかり、膝も外側に開きます。現代の日本人にO脚が多い原因です」
歩くときも、足を平行にそろえて踏み出す。つま先を開いて歩くと、腰や肩が揺すられ、動きに無駄が出る。美しくもない。
また、立つ姿勢では、背筋を自然に伸ばすのは当然だが「耳が肩に垂れる」のがよいとされる。頭を立て、胸を開くと耳の位置が肩の上にくる。それが正しい姿勢だ。
「よく接客の指導などでは、手を前で組ませますね。あれは胸がすぼまるので、よくない姿勢です。胸を開けば、腕は前で組めないのが、人間の体では自然ですから」
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▼立つ----------
かくのごとく「体直く」は、人の骨格・体型に逆らわない体の使い方なのである。だが、小笠原流礼法の歩く&座るは、現代人にはかなりきつい動作である。
歩くとき、一般には前に踏み出した足に体重をかけ、後ろの足を引き寄せるようにする。ところが、礼法では踏み出した足と後ろの足の真ん中に重心を置き、両足を引き寄せるようにして、後ろの足を前に出す。
この歩き方は、大腿筋に強い負荷がかかり、にわかにはできない。座った状態から立つ動作は、さらに至難の業だ。これはぜひ、椅子で試してみてほしい。
「体直く」すなわち、上体を直立させた姿勢のままで、体を前傾させず、反動もつけずに立ち上がるのである。多くの人は、座面から尻を離すことができないだろう。
だが、歩行でも起立でも、使っているのは大腿筋ばかりではない。腹筋、背筋をはじめ、体幹全体を使う。今でこそ、体幹トレーニングが目新しいかのように喧伝されるが、かつて武士は、日常のすべての動作でこれを行っていたのだ。
「彼らは、現代人よりもはるかに強い筋力と、平衡感覚を持ち合わせていたでしょう」
さもありなん。試してみれば納得がいく。
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▼歩く----------
武士層は皆、幼い頃から礼法で鍛錬を積んだ。それがどれほどのものなのか。故・黒澤明監督の逸話に、その一端がうかがえる。
「先代(三十世・清信氏)の頃です。映画のシーンに膝行・膝退(しっこう・しったい)の動作を使いたいからと、黒澤監督が何度かこの教場にみえられたのですが、『これは俳優にはできない』と、結局はあきらめられました」
膝行・膝退は、跪坐の姿勢から、片膝を立てながら前進あるいは後退する動作。礼法に則った膝行・膝退は、途中で動作を止めることなく、滑らかに進退する。筋肉を相当に鍛えていないと「膝行はできても、膝退はできない」という。
「畳に敷いた薄紙の上で行っても、薄紙がずれないくらい、武士の身体感覚は研ぎ澄まされていました」
それほどハイレベルな動作は無理でも、礼法の鍛錬法を日常に取り入れることはできないものか。宗家が「鍛錬というより、健康法のひとつとして試してみてください」と勧めるのが「練る足」の基礎練習だ。
練る足は、呼吸に合わせ、大きな歩幅でゆっくりと動く高度な歩行法。その基礎練習は、肩幅より少し広めに開いた両足を、膝を使わずに中央に引き寄せる。あるいはふだんの歩幅程度に前後に開いた足を、体に引き寄せる。それを繰り返すというものだ。3分程度続けただけでも汗が出てくる。
それがスムーズにできるようになったら、足を大きく前後に開き、後ろの足を前に送り出す方法を考え、試みるとよいという。
「しゃがんで立つという動作が、現代の生活では少なくなり、日本人の足腰は昔に比べるとかなり弱っています。日常の動きのなかで体を鍛える礼法の体の使い方は、現代人にこそ必要だと思います」
心正しく、体直くする。まず職場で椅子に座る姿勢から、これを心がけてみよう。
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▼膝行・膝退----------
※参考資料=小笠原清基『疲れない身体の作り方』、DVD『小笠原流礼法』
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小笠原流礼法三十一世宗家 小笠原清忠(おがさわら・きよただ)----------