​二宮金次郎像、学校から次々撤去。ながら歩きは危険などの理由 | ニコニコニュース

マイナビスチューデント

3月1日放送、「LIVE2016あしたのニュース&すぽると!」(フジテレビ)では、二宮金次郎像。学校には二宮金次郎の銅像が飾られていることが多い。愛知県・名古屋市では、小学校に飾られていた二宮金次郎像の行方が話題となっている。勤勉の精神を伝えるために、薪を背負いながら歩いて本を読む二宮金次郎の銅像は、勉学の象徴として多くの学校で採用されてきた。だが、勤勉の精神が時代にあっていないという意見や、そもそも、「ながら歩き」は危険だという批判などが寄せられていた。そのため、今、各地で二宮金次郎像が撤去されている。その行方は、神社へ奉納されたケースもあるし、居酒屋に贈られたケースなどもある。

二宮金次郎は、幕末の農民。とても貧しかったが、苦労を重ねながらも学問をおさめ、成功を果たした。農民から努力して武士へと身分を上昇させ、明治の時代になった時は農地改革を行った。朝から晩まで一生懸命働き、仕事があるため家では勉強させてもらえなかった。そこで、銅像にあるように、薪を背負って歩く途中に本を読んでいたのだ。

二宮金次郎は、ナスが好きだったと言われる。ある年に、ナスの味がおかしいような気がすると気がついた二宮金次郎は、飢饉がやってくるのではないだろうかと予測した。そして、周囲には、天候不順に強い作物を植えるように推奨した。飢饉は実際にやってきたが、その地方では餓死者がでることなく、無事に悪天候を乗り切ることができたのだ。

二宮金次郎が独学で学んだのは、論語や、中庸などの書物。荒廃した土地の復興に見事に成功し、農地改革を行って農村の生産性を高めた。また、倹約や富のわかち合いも推奨しており、徳を高める行為を推奨したのだ。明治の時代になると、政府が彼に注目し、農民の勤勉と倹約を重んじて、農村を復興させた人物として知られるようになる。

明治の時代にはすでに、彼は優れた人物として描かれており、親の手を助け兄弟協力しあって孝行するお手本として広く宣伝された。昭和のはじめごろになると、日本政府は彼の姿勢を参考に国民を高揚させるため、銅像にして全国に建てるようになった。戦後は戦争の反省もあって銅像は撤去されたが、勤勉さの部分と業績そのものを推奨する姿として、再び銅像が広まったのだ。