正直に言うと、僕は「努力」というものが苦手です。子どもの頃から、計算ドリルを繰り返したり、英単語を毎日反復して覚えたりということがとにかく苦手でした。苦手だったとしても、みんなもやるんだから、がんばって取り組まなければならない。「努力」という言葉の本来の意味とは異なってくるかもしれませんが、僕にとっては「つらいことでも我慢して計画的に反復練習する」というイメージのものでした。
一方で、そんな「努力」が得意な人もいると思います。与えられた目標を達成するためにコツコツとがんばれる人、また、それを「我慢」だと感じずに取り組める人。そして、どれだけ世の中が変化しても、そうした普遍的な努力が求められる職業や仕事はたくさん残っています。また、日本のほとんどの高校・大学受験や資格制度も、そんな努力が報われるようにつくられているようです。
努力が苦手な人はどうすればいいのか。僕の場合は、徹底的に【工夫】するという戦い方をしてきました。
今でもよく覚えている、中学時代の夏休みの読書感想文の話をしたいと思います。
中学生にもなると、ある程度ボリュームのある難しい本を選んで読まなくてはならない、というような空気になります。でも、夏休みにはやりたいことがたくさんあって、ボリュームのある難しい本を読むのはとてもつらく、できれば避けたいことでした。そこで、逆に数十ページくらいしかない児童向けの絵本で読書感想文を書くことを思いつきました。
すると、「絵本で書いた読書感想文で入選する」という目標が勝手に湧き上がってきました。入選すれば、例年一緒に読んだ本もセットで掲示されていたので、先生やみんなを驚かせてはじめて、この企みは成功します。あえて絵本を選ぶ以上、入選しなければ意味がありません。
絵本で入選するという目標を立てたら、俄然テンションが上がりました。宿題なんて嫌で嫌でしかたなかったのに、「工夫」によってむしろやる気に火がついたのです。
選んだのは『夜をつけよう』というタイトルの絵本です。夜の暗闇が嫌いな男の子に、「勇気をもって目を開けてごらん。星空も見えるし、街灯も光っているし、夜って明るいんだよ」と語りかける内容です。この話を自分の幼少期の経験にあてはめながら、「僕たちにとって暗闇とは何か」というテーマで読書感想文を書きました。絵本で入選するには、本の中のテーマや世界観を壮大に膨らませ、様々な視点から考察する「工夫」が必要でした。むしろ、工夫するしかありません。そして見事、入選を果たしました。
中学生にもなって、絵本で読書感想文を書くというのは、見方によっては“ズルい”かもしれません。ある程度のボリュームの本を選ぶことが“まとも”だとするなら、たしかにズルい。でも、僕がまともな正攻法でやった場合は、もっといい加減な結果になっていたのだと思います。
ボリュームがある本を嫌々読みはじめても、ズルい中学生だった僕はおそらく「面倒だからあとがきを写しちゃえ」ということになって、とにかく宿題をこなすだけ、何の学びにも成果にもならなかったと思います。正攻法で努力できなくても、自分なりのマニアックな手法で工夫することによって、むしろやる気も高まり、楽しみながら自分なりの解釈や表現を凝らすこともできました。
社会人になってからも、他人と同じ土俵で戦うための努力はつらいので、人とは違う指標で評価してもらえる場所を探すように工夫していたのだと思います。例えるなら、競合の多い“メジャー競技”をやめて、競技人口の少ない“マイナー競技”で戦うイメージです。もっといえば、自分で勝手に新しい競技をつくって、小さい大会を開催してしまう、というようなものだったかもしれません。
マイナー競技を立ち上げても、世の中にニーズがなかったらどうするのかという不安もあるでしょう。そこは幸いないことに、情報化や価値観の多様化なるものによって、どんなにマニアックな分野やスタイルのものでも一定の市場が存在するようになりました。人とは違う趣向や特技をもった少数派の人も、十分に活躍できる時代です。その点では、すごく恵まれた社会環境だと思います。これが大量生産・大量消費の時代なら、経済は成長していたかもしれませんが、僕のように普遍的な努力が苦手な人は、社会から取り残されていたか、落ちこぼれていたに違いありません。
「努力よりも工夫する人生」を選んだことで、僕はメジャー競技・大会での優勝はあきらめました。だからといって、欲深い僕は、2番目や3番目で我慢するのも嫌なんです。努力がいやなら、死ぬほど工夫して、マニアックだけど“替えのきかない存在”を目指すしかない。
狙うのは、優勝ではなく“特別賞”です。特別賞は、トップではなくても、その人らしく楽しく工夫ができる。もしかしたらその工夫の中から、小さくても、新しいものが生まれるかもしれない。みんなが優勝ではなく、特別賞を目指す。そんな社会もいいなと思います。