映画やテレビの世界で活躍する絶世の美男美女となぜか一夜を共にした記憶があったとしたら……。そしていつでもその時のことを詳細にいたるまでありありと思い出せるとすれば、それは確かに“一生の思い出”なのかもしれない。あるいは、時折思い出しては苛まれる忘れてしまいたい過去の記憶が、ある日を境にきれいさっぱり消えてなくなるとしたら、文字通り心が軽くなりそうだ。これらは非現実的なSFめいた願望ではあるが、人間の記憶が自由に操作できる日が来るのは今や時間の問題であると、イギリスの高名な3人の神経科学者が主張している――。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/03/post_9081.html】
■記憶を“移植”することが可能になる
先日、“神経科学界のノーベル賞”とも言われるほど名誉のある「Brain Prize」に、イギリスの3人の神経科学者が合同で受賞したことが発表された。受賞者に名を連ねたティム・ブリス教授、グラハム・コリングリッジ教授、リチャード・モリス教授の3人は、脳の海馬部分のシナプスに起きる現象である長期増強 (long-term potentiation、LTP)に関する研究の優れた功績を讃えられることになったのだ。
長期増強 (LTP) は学習と記憶に重要な役割を果たしているといわれ、特に長期記憶と深い関連があると見なされている。このLTPの研究は1960年代から行われているが、1973年にティム・ブリス教授と共同研究者のテリエ・レモ氏によって、そのメカニズムの詳細が最初に規定された。そしてこの時の研究をベースにしてコリングリッジ教授とモリス教授の研究を含め、人間の記憶の解明に迫るさまざまな試みが行なわれてきたのだ。
英・ロンドンのフランシスクリック研究所で行なわれた記者発表において、研究の第一人者であり今年75歳のブリス教授は「人間の記憶を完全に理解し、その働きに習熟するまでもう時間の問題です」と豪語している。近い将来、人間の記憶を自由に操作することが可能になるというのだ。
■マリリン・モンロー実験とは?
教授はなんと、マリリン・モンローと一夜を過ごした記憶を植え込むことができるとまで発言している。実はこれは“マリリン・モンロー実験”と呼ばれ、これまで研究者の間で話題にされてきた“業界用語的”な、若干遊び心を含んでわかりやすく命名された議題であるということだ。しかし、その内容はお遊びでもSFでもない。ブリス教授は近い将来に登場するであろう「シナプス外科医(synapse surgeon)」によって記憶を“移植”することができると英紙「Telegraph」の記事で主張している。
「(記憶の移植は)理論的には可能なのです。しかしもちろん今までは(倫理的問題などで)行うことができませんでした。しかしこれからも絶対にできないと断言することはできません。将来、社会全体で決める案件のひとつでしょう」(ティム・ブリス教授)
マリリン・モンローとの逢瀬のひと時の体験であれば、ロマンス映画を見たり恋愛小説を読んだりする体験の延長線上の“エンターテインメント”にも思えるが、例えば知識や技能の記憶も移植できるとなればその影響は大きなものになるだろう。受験勉強が“シナプス手術”で不要になってしまうかもしれないからだ。
■PTSD治療の切り札に
3人の受賞者の1人、61歳のグラハム・コリングリッジ教授は、トラウマ(心的外傷)の元凶となるような思い出したくない記憶を取り除く可能性を追求している。心的外傷後ストレス障害 (PTSD)などは、過去の凄惨を極めたショッキングな記憶によって形成された疾病であると考えられるからだ。つまり記憶に苦しめられる病なのである。
「薬を使って“悪い記憶”を取り除くことはPTSDや他の慢性精神疾患に対するとても有効な治療法で、これについても私たちが研究を進められる良い材料が揃っています。将来、記憶を操作することで(精神疾患治療における)恩恵がもたらされるでしょう。そしてこの点こそが我々が研究を進めている最大の理由なのです」(グラハム・コリングリッジ教授)
一説ではPTSD患者の自殺率は一般人の2倍以上といわれ、米軍でも帰還兵の精神疾患や自殺が深刻な問題となっている。このPTSDに対する抜本的な治療法がコリングリッジ教授らの研究によって開発されるかもしれないということだ。
■アルツハイマー治療へも
そして受賞した3人のもう1人、リチャード・モリス教授(67歳)は、記憶操作によるアルツハイマー病(アルツハイマー型認知症)の治療への道を探っている。アルツハイマー病は時を経るに従い進行する病気で、初期の段階においては記憶障害が見られる。モリス博士はこのとき、記憶や学習を司る海馬のシナプス結合の機能が症状に冒されているのではないかと考えているのだ。そして特にLTP(長期増強)のメカニズムがうまく働かなくなることで、新しい記憶を形成できなくなっていると説明している。
「言うは易く行うは難しではありますが、アルツハイマー初期の治療に焦点を絞ることで、進行を食い止める有効な新薬を開発できる道が開けてきます」(リチャード・モリス教授)
今年の「Brain Prize」に合同での受賞となった3人の教授だが、研究の方向性はこのようにそれぞれ異なっている。この3人のパイオニアに触発されて、神経科学における記憶の分野において、若い研究者も着実に育っているということだ。
また同じタイミングで米公共テレビ「PBS」の人気ドキュメンタリー番組『NOVA』でも記憶の操作がどこまで可能なのかを探った科学特番「Memory Hackers」を先頃放送して今注目を集めている。しかしながら人間の記憶が自由に追加されたり削除されたりする日がやってくるとすれば、自己同一性を柱とする現在の“人間観”を大きく揺るがすものにもなる。神経科学の驚くべき進歩に胸が躍る思いがすると共に、今後の研究の進捗がどのような展開を見せるのか気になるところだ。
(文=仲田しんじ)
※画像は、MARILYN MONROE ( マリリン モンロー ) 公式ポストカード7枚セットより