少し前、田原総一朗さん、岸井成格さんなど著名ジャーナリスト6人がズラリと並んだ画像を用いた「クソコラグランプリ」がネットで話題となったのをご存じだろうか。
高市早苗総務大臣が、放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性について言及したことを受けて、報道が萎縮すると抗議を行った際にみなさんが掲げた「私たちは怒っています!」と垂れ幕の文字を入れ替えて、くだらない画像にするという不謹慎極まりない悪ふざけだ。
「安倍政権の暴走を止めるため立ち上がった方たちを茶化すなんて」と不快に思われる方も多いだろうが、あまりに話題になったのでちょっと覗(のぞ)いてみたら、これがなかなかよくできていて、なかには問題の本質を突くようなクソコラがあった。
それが、6人が掲げる垂れ幕に「偏向報道許せ!」という文字がのっけられたものだ。
そう聞くと、「ははあん、さてはこいつはネトウヨ的な思考のライターなのだな」と思われるかもしれないが、そういうマスゴミ批判的なお話ではない。ジャーナリストのみなさんが懸念されている「報道の萎縮」というものを根本的に解決するには、ぶっちゃけこういうカミングアウトが必要だと考えているのだ。
いや、皮肉とかではない。大真面目な話である。
権力の監視も含めた「国民からみた公平さ」
実は田原さんたちが怒るきっかけとなった「電波停止問題」というのは、怒ってどうにかなる話ではない。放送法第4条の中に放送局の「編集準則」という要件として「政治的に公平であること」とちゃんと明文化されているからだ。一部の産業が少々ゴネてみたら法律が無効になりましたなんてことがあったら、そっちのほうが法治国家としては大問題なのであって、もしまかり間違って民進党が政権をとっても、総務大臣の答弁はああゆうことになる。つまり、これは安倍政権がファシズムだとか、軍靴の音が聞こえるとかという類の話ではないのだ。
すべての元凶が、「政治的公平」というおかしな記述にあるということは、よその国をみても明らかだ。
例えば、米国なんか分かりやすい。かつてはテレビ局を管轄する連邦通信委員会が「報道の政治的公平」を求める時代もあったが、1987年にこれをスパッと廃止。300以上のチャンネルがわんさかあって、視聴者である「米国人」というものも多様化していく中で、テレビの「政治的公平」を誰がジャッジするのかというのはほぼ不可能だからだ。
それは、日本人が「ジャーナリズムの鏡」としてうらやむ英国の国営放送BBCにもあてはまる。ここはかつてフォークランド紛争を「中立」に報道し、サッチャー政権から厳しく批判されても屈しなかったことで、NHKも爪の垢を煎じて飲めみたいな感じで引き合いに出されることも多いのだが、これも英国のテレビ局に「政治的公平」を求める法的な縛りがないことが大きい。「公平さ」というのはあくまで個々の自主的なガイドラインによって判断されているのだ。
実際、当時のBBCのガイドラインにも、「公平性は、絶対的な中立性を意味するのではない」という記述があり、このガイドラインも時代によって恣意的に運用され、ちょこちょこ書き換えられてきた。つまり、世界ではジャーナリズムにおける「公平」というのは、権力の監視も含めた「国民からみた公平さ」であり、それは個々のジャーナリスト、報道機関が自らの言説の中で国民に対して示していくものなのだ。少なくとも、大臣やら監督官庁やら法律に基づいて「ジャッジ」をするようなものではない。その報道が公平かどうかを判断する人の「公平さ」は、誰が判断するのかという堂々巡りになってしまうからだ。独立機関をつくってもそれは同じだ。
「中立公平」という強迫観念に支配されている
では、世界のジャーナリズムがとっくの昔に放棄した「政治的公平」という法的縛りが、なぜいまだに日本のテレビ局には適応されているのか。
ひとつはGHQが残した「負の遺産」ということもあるが、なによりも日本のジャーナリズムというものが「中立公平」という強迫観念に支配されてしまっていることが大きい。
玉木明氏の『言語としてのニュー・ジャーナリズム』(學藝書林)によれば、もともとジャーナリズムというのは言語から「私」を排除した「無署名性の言語」を基底にすえることで、中立公平・客観報道という理念・倫理を確立した。しかし、1960年代の米国で、この理念では「できごと」を人々に伝えることができないという問題がが発生し、主観的なノンフィクションなど「ニュー・ジャーナリズム」が生まれた。
しかし、残念ながら日本にはこういう潮流は生まれなかった。いまだに新聞・テレビの記者たちが「中立公平・客観報道」という理念を念仏のように唱えて日々取材を行っている。ただ、その一方で「中立公平・客観報道」だけでは世に訴えることができないという厳しい現実は日本も米国も同じだ。そこで、この立派な理念を掲げたまま、こっそりと主観的な報道、個々の政治的立場に基づいた主張を潜りこませるという、今でいうところのステマ的な手法が常態化してしまったのである。さらにタチが悪いのは、当事者が罪悪感ゼロでそれをやっていることだろう。
それを象徴するのが、2月25日に発行された『ワシントン・ポスト』だ。トランプ人気に歯止めをかけるため、同党指導者に行動を起こすよう促す社説を掲載し、その中でトランプ氏を、「スターリン」「ポル・ポト」「弱い者いじめの扇動家」という表現でディスりまくりで、とにかくこいつの勢いを止めろと共和党支持者の尻を叩いているのだ。
この偏向ぶりは『ワシントン・ポスト』だけではない。今年の頭くらいまでは、米ジャーナリズムは「どうせすぐ消える」「相手をすればトランプの思う壺」みたいな専門家やワシントンのインテリたちの声を紹介して、ドクター中松さんみたいな泡末候補というイメージを広めていた。つまり、明確な意志をもって「排斥運動」を展開していたのだ。
ジャーナリストは「神」ではない
トランプ氏嫌いのインテリ層からすれば、「これぞ正義だ」と拍手喝采となるが、各地で快進撃を続けていることからも分かるようにトランプ氏にも多くの支持者がいる。それが社会に不満を抱いている白人労働者層だろうがなんだろうが、彼らからみればえらい「偏向報道」といえなくもない。ただ、そこで「偏向メディアは不買だ! デモだ!」ということにはならない。
これが「ジャーナリズム」なのだ。あちらでは新聞の社説は、政治的スタンスを明確にして、こうしろああしろと主張するのが当たり前なのである。
にもかかわらず、日本のテレビや新聞はこぞって『ワシントン・ポスト』の社説を「異例のことだ」と驚いて報じた。自分たちも安倍首相に対して似たような論調で批判をしているにもかかわらず、「そんなに政治色出して平気?」なんて調子で、まったくの他人事なのである。
これはマスコミという人たちが、いかに客観性を欠いているということもあるが、なによりも「ボクちゃんたちは中立公平だもんね」という信仰にも近い思い込みに囚(とら)われているということの証でもある。
ジャーナリストは「神」ではない。人間である以上、思想や信条の偏りもあるし、善悪の判断も個々で異なる。どこかで滝に打たれて修行をすれば、「中立公平な視点」が習得できるなんてものでもない。そういう人間の集合体であるテレビも新聞も当然、偏る。だから「政治的に公平であること」なんて無理難題をふっかけられると萎縮する。欧米のジャーナリストのようにもっとガツガツ自分たちの主観で報じたいのにそれができないのでステマのようにこっそりと忍び込ませる。これが今の「マスコミ不信」の元凶だ。
「中立公平」をうたうくせに偏るもんだから、清楚なイメージで売っていたのに実は不倫してましたというタレントみたいな激しいバッシングにも逢う。「中立公平」をうたいながら、「みんなでトイレをつまらせよう」なんてテロを扇動するようなシュプレコールを行うから「反日」とか叩かれる。
●ジャーナリストは偏ってナンボだ
つまり、日本の報道が萎縮している、息苦しい云々というのは、権力の圧力がどうとかこうだとかいう話ではなく、欧米がとっくのとうに放棄した「中立公平」にいまだ縛り付けられていることの不自由さなのだ。
この呪縛から解き放たれるためには、影響力のある大物ジャーナリストがぶっちゃけてもらうしかない。そこで冒頭のみなさんだ。日本のジャーナリズム発展のため、「偏向報道許せ!」ではないが、こんな宣言をしてみるというのはどうだろう。
「ジャーナリストは偏ってナンボだ」
偏るのが当たり前になれば、国民は個々の判断でジャーナリストを選ばざるをえないので、報道に対するリテラシー力が磨かれる。
報道側にも悪い話ではない。立場を明確にすることができるので、「朝日」なんかも「トイレをつまらせよう」なんて暗号みたいな話ではなく堂々と反政府運動の呼びかけを行える。偏るのが当たり前になれば、放送法第4条の「政治的公平であること」も有名無実化して改正されるかもしれない。そうなれば、テレビの報道の「萎縮」も解消される。
「もっとオレたちを大事にしろ」と怒っているだけではジャーナリズムの復興はない。いい加減そろそろ、自分たちが変わる必要に迫られているのではないか。
(窪田順生)