「最初、ドッキリだと思って始めたこの番組が、31年も続きました。今日で長いドッキリが終わります」
小堺一機は、そう視聴者に向けて挨拶した。
『ライオンのごきげんよう』(フジテレビ系)の前身番組『ライオンのいただきます』が84年10月に始まってから31年半、『笑っていいとも!』(同)のタモリと共に、お昼の顔として君臨し続けた小堺が、その役割を終えた。
31年前の小堺といえば、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(テレビ朝日系)の「クロ子とグレ子」で人気を博し、『笑っていいとも!』のレギュラーも経験していたものの、まだまだ若手芸人のひとりにすぎなかった。だから、お昼の帯番組の司会に彼を起用するのは大抜擢、大冒険といえた。
その冒険をしたのが、『笑っていいとも!』にタモリを抜擢するという“奇策”を成功させたプロデューサー・横澤彪である。横澤はその当時、流行の兆しのあった「おばさん」タレントたちに目をつけ、彼女たちで番組をできないかと考えた。問題は、その司会者だった。
「小堺くん、どう思います?」
構成作家の髙平哲郎に横澤はそう問いかけ、自分のアイデアを語ったという。
「これからはおばさんの時代、おばさんパワーのまとめ役に、おばさんから見て可愛い小堺一機を持って来ようと思うんです」(髙平哲郎著『今夜は最高な日々』新潮社)
そうして生まれたのが、『いただきます』だった。
小堺は、冒頭の言葉のように、その話をドッキリだと思ったという。それほどの抜擢だったのだ。
横澤は緊張する小堺に「タモさんにも言ったんだけどさ、毎日だからさ、仕事だと思うとキツいから、遊びに来るつもりでやってくださいね」とアドバイスした。
だが、数カ月がたったとき、本番の始まる数秒前に「この番組、いつから面白くなるんですか?」と、キツい一言を浴びせた。
そのとき、小堺は「毛根が死んだ音がした」と苦笑いして振り返っている。
小堺には、師と仰ぐ人物が2人いる。堺正章と萩本欽一だ。2人はうまくいかない『いただきます』を見て、小堺に同じことを言った。
「あんなに面白い人たちがいるのに、なんでひとりでしゃべってんだ?」
そう。小堺は、自分が面白いと思うことを一生懸命しゃべろうとしていたのだ。だが、番組のコンセプトは「おばさんパワー」だ。塩沢とき、浦辺粂子、淡谷のり子らパワーあふれるおばさんたちの話こそを聞かせなければならない。それを遮って小堺がしゃべっても、かみ合わないことは明白だった。
小堺が意識を変え、おばさんたちの話を聞くようになったら、番組は一気に軌道に乗り始めたのだ。
「トークが上手くなりたければ『聞き上手』になること」(「SPA!」14年11月18日号)
と小堺は言う。それこそが、『いただきます』と『ごきげんよう』を通じて小堺が得た極意だ。
『ごきげんよう』は、まさに小堺の「聞き上手」な部分を堪能できる番組だった。自分が面白いと思っている部分は、人から見るとそれほど面白くないことが多い。トーク慣れしていない人なら、なおさらだ。『ごきげんよう』には、そんなトーク慣れしていないゲストが数多く出てくる。
そういう人の話で本当に面白いのは、実は自分が面白いと思っていない部分であることが多い。
小堺は、そうした部分が出てきた瞬間、それを聞き逃さず、聞き返す。それこそが、「聞き手」としての小堺のトーク術の真骨頂なのだ。
3月25日放送に登場したキャイ~ンの天野ひろゆきから「関根(勤)さん以外で、もし芸人の中で相方を選ぶとしたら誰がいいですか?」
と問われた小堺は、少し考えた後、こう答えた。
「相方はお客さんだな」
小堺はその言葉を体現するように、観客を「相方」にした30分のひとり語りで『ごきげんよう』は幕を閉じた。
「相方」の反応を全身で聞きながら、軽妙洒脱なトークを展開していく。それはまさに30年以上「聞き手」に徹し、「聞き上手」なトークを回してきた芸人の矜持だった。
湿っぽい話は皆無だった。それゆえに、なんだか一層こみ上げてくるものがあった。これで、80年代のフジテレビの「軽チャー路線」を作った横澤が手がけたレギュラー番組が、ほぼ完全に姿を消すことになる。時代は移り変わっていく。
最後に小堺は、「相方」に向かってこう呼びかけて番組を終えた。
「みなさん、また、ごきげんよう!」
(文=てれびのスキマ http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/)