「雑念だらけ」の自分を見つめる、正しい? 瞑想のすすめ | ニコニコニュース

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■瞑想に「成果」を求めるビジネスマン

いま、ビジネスマンの間で瞑想が一層人気のようです。僕も7年ほど前から、研究活動の一環としていくつかの流派・スタイルの座禅や瞑想を体験してきました。座禅や瞑想によって、よく「無になる」などと言いますが、この「無になる」ということばが少し一人歩きしているようです。

最近では街中の寺院での座禅体験会などに参加するビジネスマンも増えていて、必ずと言っていいほど住職さんにこんな質問する人がいます。「座っているといろいろと雑念が出てきて、集中できません。どうすれば『無』になれるんでしょうか」。

すると住職さんはこんな感じで答えます。「それでいいんですよ。『明日の仕事は大丈夫かな』とか、『うまく集中できないな』など、雑念が出てきたなら雑念を感じてください」。

質問した人は、たいてい「え?」という顔をします。

ビジネスマンの多くは、座禅や瞑想にも「成果」を求めようとします。思考がクリアになったり、気持ちがリセットされたりするようなことを「期待」して、そのためのハウツーを求めがちです。

■「無」を目的化しない

しかし、それがそもそもの間違いだと思うのです。流派の一つでは、座禅は何もせずに「ただ座る」ことが基本だとされています。何の目的意識も持たず、何も意図や期待しない時間をつくることで、その瞬間だけに集中する。つまり、「無」を目的化してしまえば、それすらも邪魔になります。ただそこに座り、自分を自然な状態にすることで、何者でもない自分を感じることが大切なのだと思います。

実際に体験会などで具体的にアドバイスされるのは、「深く呼吸する」ことだけです。あたりまえですが、呼吸は人間が生きるための原始的な行為であり、それに集中すれば、「自分が今生きている状態」に意識をフォーカスすることになります。

僕が研究活動を通じて座禅や瞑想にも興味をもったのは、それが「自律した生き方」につながるとも考えられているからです。

ここで、「自律」という言葉の意味を改めて考えてみたいと思います。よく比較される言葉に「自立」がありますが、「自立」とは「経済的・社会的に一人前になる、独り立ちする」という意味です。

一方で「自律」は、一般的には「自分を律する、コントロールする」といった言葉ですが、もう少し深い意味があります。「自分自身を受け入れる、自分の内面と向き合っていく」ということ、つまり、自分が置かれた状況や環境をまずは認め、自分の心や精神とちゃんと向き合っていくことだと解釈されています。

■「自律した生き方」のトレーニング

社会が成熟するにつれ、社会的・経済的に自分の足で立つこと(=自立)よりも、「自分は何者なのか」「自分なりに生きていくとはどういうことなのだろう」という問いが生まれてきます。この、自分の内面の問いと向き合い、自分の個性や癖、偏りなどを受け入れていくことが、本来の「自分らしく生きる」という意味であり、「自律」という言葉の本質なのだと思います。

その「自律」のためのトレーニングに、座禅や瞑想は適していると言われています。僕たちはいつも、「この仕事ではどちらを選ぶべきか」とか「どうすれば成功するだろうか」と頭で考えたり、周りの情報を判断したりして、自分の「外側」に答えを求めている。しかし、それをいくら思考しても、いつも完璧な結論を導けるわけではなく、うまくいくことばかりではありません。

それよりも、自分が本当に求めていることや大切にしたいこと、それは大げさに言えば、自分なりの哲学とも呼べるかもしれませんが、自分の「内側」にある自然な声にそっと耳を傾け、自分をありのまま感じることで「自分なりの生き方」に近づくことができるのかもしれません。もちろん、それが会社や組織の短期的な成果や評価につながるとは限りませんが……。

現代社会に生きる僕たちが、何もしない、何も考えない時間をつくるのは案外難しいことです。だからこそ、そんな時間をつくっていくことは大切です。興味があれば、まずはその成果などを期待しすぎずに、ただ体験してみればいいのではないのでしょうか。

雑念だらけなら、「自分は雑念だらけだ」と感じるだけでいい。それが、自分自身を見つめているということなのだと思います。