1990年7月、40代を迎える2か月前に、ジャカルタにある現地法人インドネシア味の素に営業と新商品開発の責任者として赴任した。以来6年、着任の前年にジャワ島東部でテスト販売したチキン風味の調味料「Masako」の全国展開に、力を注ぐ。
同国はイスラム教徒が約9割を占め、食の戒律も厳しいが、鶏肉は許される。だが、低所得者が多く、大半の家庭は月に一度食べることができるかどうかの時代。別の企業がチキン風味の商品を出していたが、香りを付けただけで、本物の肉は使っていない。これに対し、新商品には鶏肉のエキスを使うことを決め、開発を重ねた。
当時の人口は約2億人。300を超える民族が共存し、食文化も多様だ。でも、9割が農漁村に住み、市場データなどない。送り込まれた技術者が各地を訪ね、消費者を集めた会で味や調理法などの意見を聞き、スープから炒め物までの万能調味料に磨き上げた。「Masako」は、インドネシア語で料理する意味の「Masak」から、命名された。
赴任の2年前、希望していた海外部へ異動し、アジア担当課長としてこの開発も知っていた。インドネシアの調味料市場では地元企業がシェアを4割ほど持ち、2、3位を韓国系企業と争っていた。「味の素」に加える柱がほしい状況で、当然、「Masako」で勝負だ、との思いで着任する。
すぐに集めた住民の意見を点検し、代表的な地域に共通した点をもとに、販促活動を練り上げる。生産を本格化させ、価格は10グラム入り1鍋分で6円相当。先行していたチキン風香りだけの競争品の半値で、同国の大家族主義に向いた超低価格とした。
同時に、家庭教師を頼み、インドネシア語を猛勉強する。もちろん、「Masako」の販促で、店回りの先頭に立つためだ。支店が4カ所、「MESS」と呼ぶ民家を借りた倉庫兼事務所の拠点が全国に180カ所。総勢1750人の販売部隊とともに、各地の小売店だけでなく、板が間隔を置いて結んであるだけの縄の橋でしかいけない地にも、足を運ぶ。
回ると、アイデアが浮かぶし、提案や苦情にも出会う。「商品を陳列する棚がほしい」「棚に商品の広告を付けてほしい」といった声を、どんどん吸い上げた。包装の問題点も聞き、改善する。このとき以来、店との協業を重視、そして「課題は現場にあり、解決策も現場にある」との信条が仕事の原点となった。
テスト販売時には月1トンだった販売量は、2年後に100倍、いまでは数千倍。振り返れば、全国展開に踏み切った際、まだデータは不完全だった。でも「もういける」と思い、動き出す。生来、楽観的に考える性格で、答えが70点になれば始める。やってみると、何か反応があるので、それを活かして100点に磨き上げていく。最初から100点の案をと考えると、時間がかかり、環境が変わってしまう。やりたくない人間が、「できない理由」ばかりを並べてくることにもなる。大企業病というのは、そのへんにあると思っていたから、「70点主義」を部下たちとやってきた。
想像を超えていた壁が、現地スタッフとの労働観の違い。彼らには、日本からいっていた駐在員たちと同様に、厳しく指導した。駐在員は不便な環境のなか、どうしても現地スタッフを甘やかし、無難に過ごそうとなりがちだ。それでは、幹部が育たない。手抜き、先送り、妥協の3つには、雷を落とす。将来、彼らだけで運営できるようにするには、人材育成が基本。すべて、そう思って叱る。
ところが、相手は変わらない。失敗をしても、インドネシア語で「ティダ、アパアパ」(気にしない、気にしない)と笑う。上司が慰めに言うのではなく、本人が言うので腹が立つ。遅れている仕事に「それ、いつやるの」と聞くと「ベソック」(明日)と答え、しかも翌日にはやらない。植民地時代が長く、失敗しても謝ってはいけない、非を認めると解雇されるとの考えが、根付いていた。
彼らには、嫌われただろう。でも、「成果を出して育ってくれればいい」と、我慢を貫く。これも「70点主義」の1つかもしれない。帰国時に、現地の幹部候補生らが別れを惜しんで泣いたのをみて、文化の変化に驚いた。
「知者無不知也。當務之爲急」(知者は知らざること無き也。當に務むべきを之れ急と爲す)――物事の道理をわきまえた人は、知らないものはない。だが、知るだけでなく、何に力を尽くすべきかを悟ることを急ぐべきだ、との意味だ。中国の古典『孟子』にある言葉で、物事には優先度や軽重があり、知るよりも実行する大切さを説く。ある程度のデータを得たらやってみる横山流の「70点主義」は、この教えに重なる。
1950年9月、福岡市六本松に生まれる。父は会社員で、母と弟、妹の5人家族。父の転勤に伴い転校が続き、高校2年から愛知県立旭丘高校へ通う。ワンダーフォーゲル部に入り、8月1日に10人くらいで長野県・木曽の御嶽山に登ったが、2つの高気圧と南海上の台風で、大気が不安定になる。昼過ぎに山頂で雷に遭遇し、仲間と地面に伏せて雷雲が去るのを待った。直後、北にある西穂高岳から下山していた松本深志高校の教員と2年生らが被雷し、生徒11人が亡くなった。衝撃的な出来事で、ずっと、忘れられない。
74年春、早大政経学部経済学科を卒業、味の素に入社し、東京支店食品課へ配属された。家庭用のマヨネーズやスープ、マーガリンなどを受け持ち、2つの大手スーパーの店を回る。8年目から2年間は、支店の外食課で成長を続ける外食産業に直販する部隊を管理した。新しい課で、総勢10人余り。工場のリストラできていた年長者もいて、初めてマネジメント的な役割を経験する。
冒頭のインドネシア勤務から帰った後は、本社の広域営業本部で東京の大手流通企業を担当。バブル経済が崩壊して消費が落ち込む逆風下、13年ぶりに国内営業を経験する。さらに、福岡支店長として「地域未着営業」の指揮を執り、大阪支店長や食品部門のトップを務めた後、2013年6月にAGF社長に就任。それまで6年間、AGFの社外取締役を兼務していたし、味の素もコーヒーや粉末飲料を手がけていたから、「土地勘」はある。だが、新天地は、もっと広かった。
日本のコーヒーの出荷額は、お茶と炭酸飲料を合わせた規模で、2兆円市場が視野に入る。とくに瓶入りのインスタントに加え、1人単位のスティックや個々にドリップして飲む「パーソナルレギュラー」と呼ぶ商品が、ライフスタイルの変化とともに急増中。コンビニの店頭でドリップするコーヒーの売り上げも全国で増え、未開拓の海外市場も広大だ。
仮に「70点主義」で始めたとしても、今後の成長も考えると、100点に磨き上げていく余地はすごい。だからといって、ゆっくり構えていては、いけない。100満点の戦略を練ろうとすれば、スピードに欠ける。やはり「當務之爲急」だ。そのキーワードは、「深掘り」になる。
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味の素ゼネラルフーヅ社長 横山敬一(よこやま・けいいち)----------