子どもは泣くのが仕事のひとつ。とはいえ、静かな空間で甲高い声を出されれば、「子どものやることだから」と思えなくなってはくる。しかし、意外と街中にはいないだろうか。子どもを泣かせっぱなしで知らん顔の親たちが……。
「教えて!goo」でも「何故子どもが泣いていても知らん顔なのでしょうか?」と訝しがる人がいた。通勤電車ならまだしも、たとえば新幹線ならば泣いている子どもを連れてデッキに移動するなどして、まわりの「迷惑」に配慮すべきではないかと質問者さんは言う。この問いかけに対し、さまざまな声が寄せられていた。
「親がなってない」「他人の迷惑を考えられていない」と怒り混じりの賛同もあったが、今回は違う角度からの意見を取り上げてみたい。どれが正解という類のものではないが一考に値するポイントもあると感じる。
■親側の努力を見守るのもマナー
「互いの立場を想像してあげることもマナーだと思います。デッキに出たりあやしたり、親が泣き止ませようと努力しているのなら、寛容に見守ることもマナー」(kabaddi13さん)
現在ニュースを騒がせている保育園問題もそうだが、親は何かと“戦っている”ことが多い。当事者にならなければわからないこともある。一概に「迷惑だ」と切り捨てるのではなく、親の立場から見守るという姿勢を持つことで、たしかに許容範囲も広まるように思える。
■「他人の迷惑」を振りかざすと自分の首も締まる
「子どもが泣くというのはある意味で不可抗力だとは思いますが、度の過ぎた香水などのほうが自分からやっている分だけはるかに悪質だと思います」(mojittoさん)
mojittoさんは「知っててやってしまう迷惑もあれば、知らずにやってしまう迷惑もある」と言う。論点を「迷惑がどうか」に置いた場合、個人によって許容度が異なってくるからだ。「子連れは電車やバスに乗らないでほしい」という過激な意見もあったが、「迷惑かどうか」で照らし合わせると、仮に自分が「風邪気味で電車に乗る」のも、見方によっては迷惑行為となってしまう。
子どもの領分を考えるに、ある程度の寛容さは自分の身を助けるともいえそうだ。もちろん、あまりに目につくようなら声をかけるか、自分がその場を立ち去るという選択肢もある。
■我が子への対応として致し方ないこともある
「まれに『構えば構うほど泣く子』というのもいます。(中略)…よく『お母さんなら泣き止ませられるもの』と思われるようですが、それは違います」(kawagutinozomiさん)
子を持つ親から寄せられた意見に「対処法としてそうするしかない」というものもあった。もちろんその返答ですべてが片付くわけではないのだが、「そういう状況もある」と知っておくことそのものには価値があるだろう。
インターネットの発達に連れてか「相互監視」のような空気がより濃くなってきたようにも筆者は感じる。難しい問題だが、「他人にある程度は寛容であると自分も助かる」という視点は、生きやすさにもつながるように思う。みなさんはどう思うだろうか?
(松本塩梅)
教えて!goo スタッフ(Oshiete Staff)