パリの下町を舞台に、1人の少年と赤い風船の交流を描いた『赤い風船』(1956)。短編映画『白い馬』(1952)やドキュメンタリー作品、ヘリコプターによる空撮の名手としても知られたアルベール・ラモリス監督が息子のパスカルを主演に、シンプルなストーリーをカラフルな映像で描く、詩情あふれる名作だ。(冨永由紀)
朝、学校に行こうとしていた男の子・パスカルが街灯に糸の絡まった赤い風船を見つける。丸くて大きな風船を持ったままではバスにも乗れず、でも風船を手放すこともできず、パスカルは走って登校する。下校時に職員に預けた風船を受け取って帰宅するものの、今度は母親が窓から風船を出してしまう。ところが不思議と風船はそのまま飛んでいくこともなく、窓の外に留まり続けた。
風船は拾われた子犬のようにパスカルに懐き、言うことを聞く。翌朝の登校時にはパスカルがバスに乗り込み、風船はそのバスを追いかけていく。どこへ行くのも一緒。だが、小さな男の子と彼の体の半分以上もある風船というアンバランスな恰好に、通りを行き交う大人たちは怪訝な表情を浮かべ、学校の先生は眉をひそめ、他の子供たちは羨ましさもあって意地悪な気持ちを募らせていく。
台詞はごくわずかで、独りぼっちの少年といたずら好きの風船が街を行く姿で構成されている。パスカルは優しく大人しそうだが、風船は厳格な校長先生や大人をからかい、通りで女の子が持っている青い風船と出会うとそっちについて行きそうになったり、やんちゃで微笑ましい。2008年のリマスター版公開時に、亡き父の代わりにインタビューを受けたパスカル・ラモリスは「観客の夢を壊してしまうから」と撮影手法の詳細は明かさなかったが、まるで生き物のように意志を感じさせる風船と、その動きに素直に反応する撮影当時6歳のパスカル少年の表情が、手の込んだ特撮以上の力を放ち、映像のマジックをもたらしている。
撮影地は今や再開発が進み、アーティストが集う最先端の地区の一つであるパリ20区のメニルモンタン。60年前の街並みには、現代と少しも変わらないところもあれば、崩れかけた建物や空き地は1950年代という時代を感じさせる。カメラが捉えた何気ないパリの日常は、当時はありふれたものだったはずだが、今はもう存在しない。ノスタルジーを誘う光景だ。
子供の目の高さは低く、その目に映る街の風景は、石造りの建物の壁や大人たちの服などくすんだ色ばかり。風船の赤が一層鮮やかだ。普通の風船よりも透明度が低く、色味が濃く感じられるのは、赤い風船の内側に黄色い風船を入れて同時に膨らませているから。さらにニスを塗ってつや出しをしたという。灰色の街に映える赤の美しさ、シンプルにして完ぺきな色彩設計だ。
少年と風船の幸せな交流は、羨望の塊になった子供たちの襲撃によって危機を迎える。いじめっ子たちの猛追をかわし、坂の多い石畳の通りや狭い路地を駆け抜けたパスカルと風船は空き地の野原に追いつめられる。捕まってしまったパスカルは風船に「逃げろ!」と叫ぶが、風船はその場に漂い続け、やがていじめっ子たちの1人が投げた石が命中してしまう。その瞬間、画面を静寂が包む。息をのむ、という表現をそのまま映像にしたようなショットは衝撃的だ。風船は徐々にしぼんでいきながら地面に降り、倒れ臥す。そこにいじめっ子の1人が歩み寄り……。
悲しみが広がりかけたそのとき、赤、青、白、黄色、ピンク、緑……色とりどりの風船が街中から空へ舞い上がり、大切な風船を踏みつけられ、打ちひしがれたパスカルのもとへ集まってくる。数え切れないほどの風船に囲まれた少年に笑顔が戻るラストはさまざまな解釈が可能だ。色のない街から飛び立っていくカラフルな風船と少年には多幸感と同時に儚さがある。
現在公開中の二階堂ふみ主演の『蜜のあわれ』は、室生犀星の原作だが、犀星は原作「蜜のあはれ」中の「後記 炎の金魚」で「お前が知らずに書いた『蜜のあはれ』は偶然にお前の赤い風船ではなかつたか」と本作に触れている。なるほど言われてみれば、赤い風船と『蜜のあわれ』の金魚の赤子には通じるものが多々ある。
観る側がどんな子供時代を過ごしたかによっても、解釈はわかれそうだ。少年と赤い風船を妬んだいじめっ子たちは、街中から吸い寄せられた極彩色の風船が男の子を連れて飛び去っていくのを見ていただろうか、と思う。見ていたとしたら、何を感じていたのか。ふとそんなことを考えた。
わずか30分余りの作品だが、世代を超えて人の心に訴えかける内容は長編映画に勝るとも劣らない濃密さだ。第9回カンヌ国際映画祭短編映画部門のパルムドール、そして第29回アカデミー賞では脚本賞を受賞している。