2月、神奈川県川崎市の有料老人ホームで入所者3人を「投げ落とした」として元職員の男が逮捕されたのを覚えていらっしゃる方は多いでしょう。
3件の転落死は2014年11月から12月にかけての2か月間に続けざまに起きました。発生したのはいずれも深夜。亡くなった3人は要介護2と3の方だそうです。
当初、神奈川県警は事件か事故か分らない「変死」として処理し、捜査をしませんでしたが、そのことに危機感を抱いた人たちが内部告発や虐待の事実を証明するビデオ撮影を行ったこともあって事件化。転落死から1年以上経って状況的に真っ黒だった元職員・今井隼人容疑者が逮捕され、自供に至ったわけです。
この事件は人々に大きな衝撃を与えました。
老人施設は要介護者とその家族が最後の日々を託す場所であり、その職員は親身にケアをしてくれる存在のはず。ところが、犯人の元職員は虐待を繰り返し、あろうことか投げ落として殺したのです。
厚生労働省が発表した「要介護施設従事者による高齢者虐待の相談・通報件数」では、調査を始めた2006年度の273件から2013年度には962件に、そのうち「虐待と判断された件数」は54件から221件と、いずれも約4倍に増えています。
同時に家庭内(居宅介護)での虐待についても発表されており、2013年度の相談・通報件数は2万5310件、虐待判断件数は1万5731件と比べものにならないほどの差がありますが、「施設内の虐待は隠されることが多く、氷山の一角」という報道もありました。
また、これに付随して介護施設の過酷な労働環境を紹介し、「そのストレスが高じて虐待やこうした事件に発展する」「介護施設は慢性的な人手不足のため、資質や適性を精査せずに雇用するからこういう問題が起きる」といった指摘も見られました。テレビのワイドショーでも街頭でお年寄りにコメントを求め、「施設に入るのが怖い」といった声を紹介していました。老親を施設に入れている人、これから入れようとしている人は不安に駆られたに違いありません。
この事件や報道を、介護現場の人たちは、どう受け止めたのでしょうか。
本連載において、本音を交えて介護の話を聞かせてもらっているケアマネージャーのFさんと、最近その席に参加してくれるようになったTさんは特別養護老人ホームの職員として働いた経験があるとのことなので、その質問をぶつけてみました。
まず口を開いたのはTさん。
「残念ながら介護施設で虐待があることは否定できません。それを隠したがる体質があることも確かです。が、それが氷山の一角で、どこの施設でも虐待が当たり前のように行われているといった報道は納得できません。業界にいれば色々な情報が入ってきて、実際評判の悪い施設もあります。“あそこは儲けが最優先。職員の教育もろくにしないから虐待が横行している”なんて噂を聞くこともある。でも、そんな施設は少数ですよ。多くの施設の職員は、厳しい労働環境でストレスにさらされても“虐待なんてもってのほか”と自らを律し頑張っているんです」
犯人に対してもこう言います。
「夜勤のストレスがあったと供述しているようですが、それが虐待につながり、その果てに殺人までいくというのはどう考えても異常。犯罪体質というか、彼特有の資質の問題です。同様の環境にいる施設の職員はああいうことをする可能性がある、という見方をされるのは悲しいですね」
一方、Fさんは事件が起きた施設の対応に疑問を呈します。
「転落死が仮に事故だったとしても、施設としては決してあってはいけないこと。1件目が起きた時点で緊急会議を開き、夜勤担当者への聞き取りもして原因の究明をするのが普通です。当然、その担当者は夜勤からも外す。ところが、あの施設ではそうした当たり前のことをせずに放置し、第2、第3の犠牲者を出してしまった。あの施設の運営会社の社長は“性善説で職員を見ていた”と言ったそうですが、自らの怠慢を追求されたくないがための言い訳に過ぎません」
こうしたひどい施設が存在することも事実ですが、大半の施設とその職員は入所者に寄り添い誠実にケアをしている。FさんもTさんも、今回の事件と報道によって、そうした人たちまで虐待の疑いがかけられ、白い目で見られるのはたまらないといいます。
こんな誤解が生まれるのは介護施設での要介護者と職員の関係性が今ひとつ、世間に理解されていないからかもしれません。
おそらく多くの人は、老人施設の入所者は老い衰え庇護を必要とする弱々しい存在、一方、職員は若くて元気があり、介護の技術も持っている存在。ということで両者の主導権は職員側にあり、入所者はそれに従わざるを得ないという構図を思い描くと思います。虐待にしても、それをするのは職員で、受けるのは老人という風景が浮かびます。
しかしFさんは「必ずしも、そうした関係とは限らない」といいます。
「認知症で施設に入所されている方には、体には何の問題もなく、とても元気な方がおられます。そのなかには暴力性がある人がいて、どこでどういうスイッチが入るのかは分りませんが、突然暴れ出し、殴りかかってくることがあるんです。私も何度か殴られたことがあります」
Fさんは、そういって次のようなエピソードを話してくれました。
「暴力性を持つ方をトイレに連れていくことになって付き添っていたら、案の定何の前触れもなく殴りかかってきたことがあります。それもグーで。私も殴られたくないですから、そのパンチを避けました。いくら元気でも要介護で足元は覚束ないですから、パンチを空振りしたことで倒れそうになった。倒れたら骨折などのケガをする可能性があるので、今度は倒れないように必死で体を支えるわけです」
自分に向けられたパンチを避け、その直後、それによって失われた相手のバランスを支える、という普通では考えられない対応と身のこなしをすることが施設ではあるのです。
Fさんによれば、パンチに限らず、爪を立てて腕をつかんだり、噛みついてきたりする人もいるとか。職員は介護のプロですから、そうしたことをされても騒ぎ立てたりせず耐えるしかないそうですが、冷静に考えれば職員の方は暴力や虐待を受けているようなものです。
Tさんはセクハラの話をしてくれました。
「おばあさんに下腹部をつかまれたことが何度かあります。男の私でさえ、そういうことがあるのですから、女性職員は大変なはずです」
生きている限り、性欲はなくならないといいます。一般社会で暮らしている大半の人は理性でそれを抑えていますが、認知症によって理性のタガが外れ、欲望がむき出しになる人がいるそうです。