熊本と大分で発生した大地震による被害に対する姿勢を巡り、中国社会の一部で「迷い」が生じている。その「迷い」は「愛国心」、「過去の歴史」といった要因によるものだ。そんななか、中国メディア・荊楚網が19日に「日本の地震に対して悪態をつきはしないが、祈りを捧げもしない」と主張する文章を掲載した。
記事は、日本の震災に対して中国社会が「過去の歴史からみて当然の報い」と認識する人びとと、そのような考えを痛烈に批判し自国民を卑下するような主張をする人びとに分かれていると説明。一方で、それは個々で問題を見る角度が違うに過ぎないのであって「祈りを捧げるのもおかしいことではないし、日本を憎むのも間違ってはいない。ただ、自分を聖人扱いして他人の考えにとやかく言う必要はないのである」と論じた。
そのうえで、「日本の地震に祈りは捧げない。なぜなら自分は中国人であり、体には先祖からの血脈が流れているからだ。そしてまた、喜んだりもしない。なぜなら、自分は人であり、人としての良知を持っているからだ」という個人的な見解を披露した。
文章はまた、「愛国という名の過激な表現方法は正しいとは思わないが、自国民を罵倒するのも愚かな行為だ」とし、「例え自分が罵倒の対象になったとしても、自分の日本に対する態度を変えることはできない」とその意志の強さを示している。
「作者は日本のことが好きではない」という印象を抱かせる文章であるが、その一方で、「ざまあみろ」などと喜ばないのは当然として、自国民をけなしてまで「祈りを捧げよう」と呼びかけることもせず、個人としてニュートラルな立場を取ろうとしていることが垣間見える。被災地への気遣いや祈りは、本来個人の感情から出されるべきものであり、誰かに言われたからやるものではないはずだ。静かに見守ることだって場合によっては相手への気遣いになり得るのである。
作者自身も「どっちの態度も取らない」という「態度」の表明は、ややもすれば過激な言論で自己の主張を表明し、それを押し付けようとする、昨今の中国ネット社会に対する警鐘が含まれているのかもしれない。「恨むのも祈るのも個人の自由だが、大騒ぎしないで心の中でやれ」と言ったところだろうか。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)